ここでは石田家時代の左近にまつわる逸話と伝承をご紹介します。 |
三成と左近(1) 石田治部少輔三成は、近江国石田村の百姓佐吾右衛門という者の子で、幼い頃佐吉と言ったが、家が貧しく近辺の寺に入れられていた。ある時羽柴秀吉がその寺へ行ったところ、佐吉が明敏だったことから召し抱えて側に仕えさせていたが、頻繁に禄を増やし、やがては水口四万石を与えた。 後に三成に「さぞ多くの人数を召し抱えたであろう」と聞いたところ、三成は「島左近一人を召し抱えております」と答えた。秀吉は「左近は世に聞こえた者である。お前のような小録の家で、どうやって奉公できようか」と言ったところ、三成は「禄を半分ずつにして二万石与えております」と答えた。これを聞いた秀吉は「君臣の禄が同じなどと言うことは、昔から聞いたためしがない。いかにもそれほどの志なくしては、よもやお前には仕えないであろう。それにしても思い切ったことをしたものよ」と深く感心し、左近を呼び出して手ずから羽織を与え、「これからは三成に心を合わせてやってくれよ」と言った。 三成が佐和山城を拝領したとき、左近にも禄を増やす旨を伝えたところ、「禄は不足とは思っておりません。このままで結構です。その分、他の人々へ分けてやって下さい」と辞した。左近の父はもと室町将軍家に仕え、近江高宮郷に落ちぶれて隠居していたが、三成はこれを招き出してやったという。 (『常山紀談』) 三成と左近(2) 島左近は浪人してから近江国に下り、高宮の里のそばに草庵を結んでこもっていた。石田三成は天正の末に近江水口を拝領してそこに住んでいたが、同じ近江に住む左近を無理に招き、賓客のようにして自分の所に置いた。後に三成が京都に行ったとき、秀吉から「この度の加増で何人ほど武士を召し抱えたか」と尋ねられた。三成は「島左近という者をただ一人を召し抱えました」と答えた。 それを聞いた秀吉は「島といえば我々でも聞き知っておる。よほどの待遇でなければ、その方の所などには片時も留まるまい。一体どれぐらいの知行を与えたのか」と問い返したところ、三成は「私が頂きました四万石のうち、一万五千石を与えております」と答えた。秀吉は「主従の知行に、これほどまでに差がないのも珍しい」と笑った。 左近が京都に行くと、秀吉の御前に召され、「その方は何事にも秀でていると聞くゆえ、治部少輔と相談して天下の政治にも気を配ってくれるように」との懇切な言葉とともに、秀吉手ずから菊桐紋のついた羽織を左近に与えた。 後に三成は佐和山に移り、食禄十九万石に代官地の五万石を加えて二十四万石の身代となった。左近にも加増しようとしたが、左近は「たとえ五十万石の大名になられましても、それがしは今の知行で十分でございます。下々の者にお心付けを与えてやって下さい」と固く加増を断ったので、三成は左近の嫡子新吉に新知三千石を与えたということである。 (『関ヶ原軍記大成』) 左近と宗矩 (豊臣秀吉が没して戦雲漂いだした慶長四年正月のこと、家康の傍若無人な縁組みを詰問するため、安国寺恵瓊・生駒雅楽頭・中村式部小輔・堀尾帯刀の四人が家康を除く四大老五奉行の使者として伏見へやって来た。このため世の中には様々な風説が飛び交い、世の人々は不安の面持ちで事態の推移を見守っていた。折しも伏見へ向かっていた榊原康政は、家康を守るために一計を案じて「関東から十万の兵が駆けつけた」と京の人々に思わせ、当面の家康の危機を回避させた) 家康は「柳生又右衛門(宗矩)は石田の侍大将島左近と同国の誼にて仲が良い」と聞き、宗矩を呼び「左近のもとへ行って色々話をし、彼はどう言っているのか聞いて参れ」と命じた。宗矩は左近のもとへ行って世間話をし、「この先どうなるのでしょう」と言ったところ、左近はこれを聞いて「今は松永・明智二人のごとき智謀決断ある人も見当たらぬ。いったい何事が起こるというのであろう」と笑った。というのも、かつて次のようなことがあったからである。 ある時石田三成が左近と密謀に及んだ際、左近は「豊臣家のことを思えば、そうでなくてはなりませぬ。私に思うところがありますが、大事を企てるにはそれを無理矢理にでも決断して、少しも猶予するべきではなかったのです。しかし、去年よりせっかくの機会をみすみす逃してしまわれることが多かった。もはや時は逸しました。よくよく世の中を見るに、石田家を良からぬと思う人々は大方徳川殿に心を寄せています。当家の存亡計るべからずとは言え、まだ時間はあります。ここはぐっと抑えて今まで疎遠だった諸大名にもへりくだって、遺恨なく計らって交わり親しみ、しばらく時を待つのも一つの計略かと存じます」と言った。 三成は「それならば、たとえ一時の勝利より、後々の安泰を図るであろう」と言ったところ、左近は「いやいや、首尾良く一時に勝ちを得るならば、後に何の危ないことがありましょうか。内府に親しい人々を見積もるに、せいぜい二万に過ぎません。味方はもとより心を合わせる大国の人々、また近国の人々を集めても忽ち馳せ来たりて五、六万にも及ぶでしょう。景勝卿が采配を取って下知し、関東を攻め破るにどれほどの事がありましょう」と、また思うところを述べ始めたところ、来客があって三成は席を外した。 その場に居残った柏原彦右衛門は左近に向かってこう言った。「いかにも仰せの通りにございましょう。松永弾正・明智光秀は無双の悪逆の者ですが、事を決断するにおいては並ぶ者はおりません。殿にこのような英断が出来るならば、頼られもしましょうが・・・」 こういう理由で左近は宗矩に、「何事も起こらぬ」と笑ったのである。 (『常山紀談』) 左近、家康襲撃を献策(1) (秀吉に続いて慶長四年閏三月、前田利家が没した。かねてから三成に恨みを持つ福島正則・黒田長政等七人の将は、絶好の機を逃すなとばかりに三成を討つべく押し寄せた。これを知った三成は佐竹義宣の助けもあり伏見へ逃れ、何と家康に庇護を願い出た。家康は大坂から追いかけてきた七人の将に「ようやく世も収まりつつあるのに再び戦を起こすというのか。それならわしも石田と力を合わせ、お前たちと一戦に及ぶ迄じゃ」と一喝、七将はしぶしぶ思いとどまった。そして家康は三成に向かい、子の隼人正重家は自分が面倒を見てやるので、佐和山へ隠居するように勧めた) 三成はこれに厚く礼を述べる一方、上杉景勝に相談した。景勝は「わしが会津へ帰って再び上洛しないときは、家康が催促して来るであろう。その時侮った体を装って罵ってやれば、必ず戦になる。わが軍はそう簡単には敗れぬ。堅固に支えて見せよう。その間に貴公は大坂へ行き、心を合わせる諸将を集めて旗を揚げられよ。これ以上の計略があるとは思えぬ」と一計を提案、三成もこれを容れて佐和山へ行こうと決心した。 この時島左近は三成に「宇喜多秀家や小早川秀秋は覚束なく存じます。佐和山の軍兵を計るに、一戦に及ぶに不足というわけではありません。一千余の兵に佐和山を守らせ、蒲生備中・舞兵庫・高野越中と私がそれぞれ二千の兵を率い、向島の家康の館へ風上から火を放って諸所を燃え上がらせて攻め掛かり、内府が防ぎかねて引き退くところを追い詰めつつ戦ったならば、よもや討ち漏らすことはありますまい。万一志が遂げられないときは潔く御腹を召され給え。今空しく佐和山へ退いてしまえば、後悔あれども益なし。みすみす絶好の機を逸するのは口惜しゅうございますぞ」と言ったが、三成はすでに景勝と相談して決めたこと、と左近の謀略は採用しなかった。 (『常山紀談』) 大山伯耆の手柄 石田治部少輔三成の将島左近の家士に罪を犯した者がいた。左近は目の前で罪人を放ち、下河原平太夫という者に討ち取るように命じた。下河原は勇者だったが斬り損じたため、罪人は手負いながら走り出ようとしたところ、当時まだ弱冠にも及ばない大山伯耆がたまたま次の間に居合わせ、逃げようとした罪人を組み止めて刺し殺した。そして伯耆は「これほどのことを我等に内意を知らされなかったということは遺恨である」と言い捨てて門外に出ていった。 さて、罪人の父と弟は遠いところに住んでいた。そこへ行こうとした伯耆は「きっと(左近の)討手が向かっていて、本道はそれらが遮っているであろうが、彼らがこのことを知って逃げようとするならば、きっと脇道を通るに違いない」と考えて急いだところ、案の定討手の向かう前にこのことを漏れ聞いた父子は下僕をも連れずに、父は馬上、弟は徒歩にて脇道より逃げ出した。運良くそこへ出くわした伯耆、父子を見てとっさに「先に父を斬ろうか、子を斬ろうか。先に父を斬ったならば、子はそれを見捨てて逃げ出すかもしれないが、先に子を斬れば父は必ず逃げないであろう。また馬上の父を斬れば徒歩の子は直ちに応戦するであろうが、子を斬れば馬上の父が馬から降り立つまでに隙があるだろう」と考え、すれ違いざまに抜き討ってその子を斬り倒した。 父が馬から飛び降りるところを走り寄って、伯耆はたちどころに父をも斬り倒した。彼は薄手の一ヶ所も負わず、罪人父子三人を見事討ち取った事は、類なき鮮やかな手柄である。下河原は自分に命ぜられたことを仕損じはしたが、人にあながち悪口を言い立てられなかったのは、年来度々武功がある士だったからである。伯耆はこの後石田三成の直参となり、島左近に劣らぬ武将であった。 (『砕玉話』) 左近、三成を諫める 石田三成が大坂城の天守に上って四方を眺め、城下の繁盛ぶりを見て周りの人にこう言った。 「天下擾乱の時、大器で知謀に優れた秀吉公が出て群雄を次々と従え、五畿七道を掌握なされた。今もなおこのように繁栄し、民の喜ぶ姿が見られ、またその歓声を聞く。秀頼公の永世を祈らぬ者などいるはずがない」 これを聞いた人々は口々に「その通りだ」と言った。しかし、三成に従って天守に上っていた左近は、帰ってから三成にこう言った。 「そもそも権力者の所在地には、昔から身分を問わず人は集まって参ります。つまり、たとえ繁栄していると言えども、必ずしもそれは権力者の人徳によるものとは限りません。人々は利のある方に就くというだけなのです。城下を二、三里も離れないうちに、雨も満足にしのげない茅屋が建ち並び、衣食も十分とは言えず道に倒れて餓死する者も多くいます。この城下の繁栄が遠くにまで及ぶならば、下民の幸せと申せましょう。今の情勢を考えるに、豊臣家は安穏としているときではなく、御家安泰の道を武備にだけ頼るのはいけません。まず将士を愛し、庶民を撫してその心を悉く掴むときには二心を抱く者とて服従し、恨みを持つ者も疑いが和らぎ、動乱には至らないでしょう。もし仮に、力を頼んで謀反する者が出たとしても、一檄を飛ばせばたちまち秀吉公恩顧の将士が馳せ集まって、逆賊は或いは降伏し、或いは誅されるでしょう。 これを頭に入れず、ただ城下の繁栄に驕り下々の憂苦を思わず、武備にのみ力を注ぎ城壁塹壕の補修のみ行っても、徳や礼儀をもってその根本から培養していかないと、甚だ危険なことになります」 しかし、三成は左近のこの言を用いなかったため自滅してしまった。 (『志士清談』) 左近、家康襲撃を献策(2) 慶長五年六月十八日、家康は上杉景勝攻めに伏見を出陣した。大津城で昼食をとり、その日は石部に泊まったのだが、そこへ水口城主長束正家が訪れ、翌日水口へ立ち寄ってもらうよう懇願した。さて佐和山城にいた島左近は、三成に水口への夜襲を提案した。三成は「それには及ぶまい、もはや長束とは打ち合わせ済みである。今夜長束が謀を実行するはず」と取り上げなかった。左近は「天狗も鳶と化せば蜘蛛の網にかかるたとえもございます。今夜の機会を逃してはなりませぬ」と是非にも三成に勧め、三千人の兵を率いて蘆浦観音のあたりから大船二十艘に分乗して水口へと出陣した。 急ぎ子の刻に水口まで来た左近であったが、もはや家康はすでに出立した後であった。左近は呆れて空しく佐和山へ引き返したという。 (『東照宮御實記』) 清涼寺の七不思議 湖東の名刹・清涼寺は島左近の屋敷跡に建てられた寺だが、そこには「清涼寺の七不思議」と呼ばれる「木娘」「左近の南天」「壁の月」「唸り門」「洗濯井戸」「血の池」「佐和山の黒雲」なる七つの怪異譚が伝えられており、そのうち五つの話が左近に関連する。 「木娘」は現在も清涼寺の中庭に存在する椨(タブ)の古木で、夜になると女に化けて参詣者を度々驚かせた。このため数代前の住職が封じたことから、現在はそのような怪奇現象は起こらないという。「左近の南天」は文字通り左近が愛でた南天の木で、これも現存しているが、触れると腹痛を起こすと伝えられている。 「壁の月」は左近の居間(現在は方丈の間)の壁に現れる月形の影で、寺で何度塗り替えてもしばらくするとまた影が浮き出て来るという。「唸り門」は元は左近の屋敷の表門で、大晦日の夜になると風がなくとも低く唸り続けたそうな。残念ながらこの門は安永五(1776)年の大火で焼失し、現在の門はその後再建されたものである。「洗濯井戸」は清涼寺の裏山を登ったところにある井戸で、左近はこの井戸水を用いて茶を楽しんだと伝えられるのだが、この井戸水を汲み上げて汚れ物を浸しておくと、一夜にして汚れが落ち真っ白になったという。 あとの二つは左近とは関係がないが、参考までに。「血の池」は裏手の墓地の一角にある池だが、かつて佐和山落城時に自害して果てた女の血がこの池に流れ込み、澄み切った水をたたえて美しかったのが血の色をした池になってしまった。そして水面には血だらけの女の顔が映ったという。「佐和山の黒雲」は、彦根城主の井伊氏が佐和山落城時に石田方から奪った旗指物や武器などの戦利品を虫干しする度に、決まって佐和山上空に黒雲が巻き起こり、強風が彦根城を吹き抜けてそれらの品々をさらっていったと伝えられる現象である。 (地域伝承・桜井徳太郎監修『怪異日本史』等より) |