島左近関連逸話集3
〜関ヶ原合戦とその後〜

ここでは関ヶ原合戦及び戦後の左近とその子にまつわる各種逸話をご紹介します。


三成、島左近の助言を用いず

 家康との決戦に向け準備の整った石田三成は、その佐和山出陣を八月九日と定めた。その際、島左近が言うには
「八月九日は大悪日です。出陣には最も不吉な日で、『行って戻らず』と言い、軍法に禁じる『大最期日』です。朔日・九日・十七日・二十五日は悪日につき避けるべきで、曲げても延期なされますように」
 左近は先陣の第一として嫡子新吉郎とともに二千三百余人を率いて五日に出陣、その日は垂井に宿したが、左近の軍配は一段と爽やかであったという。しかし、三成は左近のこの言を用いず、自身は予定通り九日に出陣した。
(『関ヶ原軍記大全』)


大垣城中の怪異

 決戦のちょうど一月前の慶長五年八月十五日のこと、石田三成は大垣城本丸の広間で一人うつらうつらしていた。すると戌の刻前、突然北風が吹き初めて寒気を催し、発熱して瘧病のような症状となった。しかし三成はしたたか者で一向に気にせず、名月を只一人眺め、来たる決戦に備えて軍法をあれこれ思案していた。
 すると夜中の亥の刻過ぎ、本丸天守の石垣の暗闇から年の頃六〜七歳と見える小僧が、帷子を着てそろそろと歩いてくるのが見えた。尋常の人なら気味悪がって臆すところだが、三成は少しも騒がず「大垣城中にこのような小児はいるはずがない。妖怪め、近づいたら討ち捨ててくれよう」と太刀を引き寄せ待ちかまえていたところ、小僧は庭の半ばまで来たが夜半にふっと消えてしまった。三成は非常に不審に思ったが、明晩また試してやろうと思い、その夜は明けた。
 次の日の晩、三成は書院に蚊帳を吊って横たわり、様子を窺っていたところ、案の定再び小僧が現れた。三成は島左近を呼び、昨日からの出来事を話した。左近は「その正体が何であれ、どれ程のことがありましょう。私が見届けた上で組み止めるべきかとは思いますが、庭の途中からこちらへ近寄らないということは、彼奴の腕に自信がないからでございましょう」と言い、翌日一計を案じた。

 さて翌日の晩、左近は大小の刀を外して次の間に置き、さらに三間隔てて屈強の士・磯野平三郎と護衛の侍二十人ばかりを控えさせ、三成に代わって書院の蚊帳の中に一人で横たわった。すると例の如く風が吹き、再び小僧が天守の下から現れた。小僧は庭の半ばまで来てにっこりと笑い、縁側へゆらりと上ったところ、屋敷中がグラグラと揺れ、そのすさまじいさは言葉に表せないほどであった。この時余人の目には振り袖を着た六尺ばかりの大入道に見え、その恐ろしさは言いようもなかったが、左近の目には三尺ほどの小僧にしか映らなかったという。
 縁側に上がったその化け物はそろそろと近づいてきたが、一歩毎に夥しく家鳴した。左近はこのまま化け物に正面向いていては蚊帳の中には入ってこないと思い、寝返りを打ってぐっすり寝入っている体に見せかけて待った。すると化け物は近づき、蚊帳の内に入ろうとして端を片手で持ち捲り上げた。この時如何なる者も組みつくか立ち上がるべきであるが、左近は少しも騒がずそのままさらに待った。化け物は左近に飛びかかろうとして蚊帳に躍り込んだ瞬間、左近は立ち上がり横様に組みつき、声を掛けた。左近は武勇は元より知謀にも優れた将だったので、自分の首筋や喉を守りつつ、この得体の知れない者に敢然と組みついた。
 次の間に控えていた磯野平三郎らが駆けつけたところ、左近は「組み留めた者は畜生じゃ、蚊帳を上げれば逃げよう。四方の釣手を切って落とせ」と平三郎に声を掛けた。「心得た」と平三郎らは蚊帳の釣手を切り落とし、化け物が逃げないように端を巻き上げる。化け物は逃げようとするが左近の大力の前に果たせず、脇差しを受け取った左近はついに化け物を刺し殺した。さて蚊帳を切り破って引き出したところ、何百年も生きていたかと思える、下腹に毛のない四尺ほどの熊のような古狸で、その見苦しさは非常なものであった。
 こうして三成の病も癒えたが、この事件を知る者は当事者以外誰一人いなかった。
(『関ヶ原軍記大全』)


杭瀬川の戦い

 関ヶ原合戦の前、西軍は大垣城で評議を続けていた。ここ数日東軍の赤坂陣営の様子が不審であったが、会津征伐中であるはずの徳川家康が着陣したとの報があり、城中は大騒ぎとなった。石田三成の家老島左近と蒲生備中はこれを鎮めるため斥候を出し、「これは敵が人数を増やしたように見せかける謀事である。粗忽にも当方へ手出しをするならば元より望むところ、こちらの手並みを見せつけて打ち破ってくれよう」と見方を鼓舞した。ところが斥候が帰ってきて言うには「敵陣に白旗が十流見え、まさしく内府着陣と思われます」とのことであった。左近は「それは金森父子であろう」と言ったが、「内府の持筒頭渡辺半蔵を見かけました故、内府着陣は疑いなし」とのことで、俄然城中は色めき立った。

 宇喜多秀家は三成と示し合わせて敵の虚実を探らせようと、宇喜多勢からは明石掃部・本多対馬、三成勢からは左近と蒲生備中を大将とし、大垣城を出陣して杭瀬川を渡り、雑人に命じて敵前で刈田をやらせた。眼前で刈田をやられた東軍の中村勢は「憎き敵の仕業、蹴散らしてしまえ」と怒り、竹田五郎兵衛が二間に余る鳥毛の棒を指物に飛び出したが、敵二・三人を突き倒したところへ銃撃を受け、射殺されてしまった。これを見た中村陣から家老野一色頼母や薮内匠らが駆け出し石田・宇喜多の大垣勢と激戦となったが、中村勢の横にいた東軍の有馬勢から稲次右近らもこれに加わって攻め立てたことから、大垣勢は敗走した。

 左近はあらかじめ蒲生備中と謀り一隊を一色村の林薮中に隠し置いていたが、中村勢が杭瀬川を渡ったのを見て「良き頃合いじゃ」と下知すると、伏兵がどっとおめいて鉄炮を撃ちかけ、百人ばかりの兵が突きかかっていった。これを見た敗走中の大垣勢は一転して引き返し突き立てたことから中村勢は前後の敵に挟まれ混乱、野一色頼母は石田方海北市右衛門の鉄炮に撃たれて戦死した。
 この一部始終を岡山本陣から望見していた家康は、いつ決着が付かぬともわからない乱戦に、渡辺忠右衛門に命じて兵を撤収させたがうまくいかなかった。そこで再度井伊直政・本多忠勝に命じてようやく兵を撤収させた。家康は石田方で奮戦した林半助・水野庄次郎の振る舞いを見て「あの白しなへの振を見よ見よ」と近臣に言い、感じ入ったという。
(『改正三河後風土記』)


左近と島津豊久

 左近が杭瀬川の戦いで小戦ながらも勝利を得て帰陣したときのこと。関ヶ原への転進を決め軍装を整えていた三成のもとへ、島津義弘から「緊急に申し上げたいことがある」と甥の豊久を遣わして来た。義弘は当夜の夜襲を献策し、島津勢が先陣を承ると伝えてきたが、三成は呆然として言葉が出なかった。その時、傍らにいた左近が豊久にこう言った。
「義弘公の御申し出は頼もしいと存じますが、古来より夜討ちなどというのは小勢にて大軍に討ちかかり、急に勝負を決める際のもの。大軍から小勢へ夜討ちをかけるなどというのは先例も聞いておりません。この度は天下分け目の大合戦につき、明日にも平場で一戦に及び、味方は大軍また敵は小勢の烏合の衆、勝利はいささかも疑いありますまい。左近も久々に内府の押付を見ることになりましょう」

 これを聞いた三成も「左近が今申したように、明日の勝利はもはや眼前のこと。義弘公は老巧の将ゆえ、大事をとってのお申し出は誠に過分なお心遣いではありますが、どうぞご安心いただくようお伝え下さい」と言った。豊久は左近の言葉は無礼であると憤ったが顔には出さず、左近に「その方はいつの頃、どこで内府の押付を見たのか」と尋ねた。左近は答える。
「私がまだ若年の頃、故あって甲斐の武田信玄の家人山県のもとに居ました頃、山県の一手となり内府を掛川城に押し込もうと袋井縄手まで追って行きました時、まさしく内府の押付を見ましてござる」
 聞いた豊久は「それは下賤の者の例えにある、杓子定規と申すものであろう。当時の内府と今の内府を同様に考えるのは大いなる誤りである。もしその方が言うように明日内府の押付を見ようものなら味方の大幸、これ以上のものはない。我等は更々合点が参らぬ」と苦笑し、座を立って帰って行ったという。
(『改正三河後風土記』 原典『天元実記』)


関ヶ原合戦嶋左近討死の事

 黒田長政はもとから石田三成と不仲であったが、関ヶ原合戦の前に選りすぐった十五騎を集め、「明日の戦に決して抜け駆けしては成らぬぞ。我が馬の側にいて戦え。石田と取っ組みあって討ち取ってやろう」と準備していた。
 さて、石田陣の前には柵があり、島左近は左手には槍、右手には麾を持ち、百人ばかりの兵を従えて柵より出、半数余りを柵際に残して静かに進んできた。長政は馬から下り立ち、槍を提げてにらみ合いになったところ、菅六之介政利が少し高みに登り、五十挺の鉄炮を隙間なく横合いから撃たせた。真っ先に進んできた敵はこれに負傷し、左近も生死こそ不明だが倒れたため、敵がひるんだ所を長政はどっと押し掛かって切り崩し、左近は従者の肩を借りてその場から退いた。

 菅は後に六千石を賜って和泉と称した。長政が筑前の国を領して後、関ヶ原で長政から選ばれてその側で戦った人々が集まって次のような話をしていた。
 ある者が「石田の侍大将、鬼神をも欺くといわれた島左近のその日の有様が、今なお目の前にあるようじゃな」と言ったところ、その物具の事を言い出して話が一致しなかった。皆口々にまちまちなことを言うので、今は黒田家の侍で合戦当時石田方にいた者を三人呼んで問うたところ、「左近の冑(かぶと)の立物は朱の天衝、溜塗桶皮胴の甲(よろい)に木綿浅黄の羽織を着ておりました」と語った。
 人々は驚いて「近々に詰め寄せたというのに見覚えていなかったとは、よほどうろたえていたんじゃろうな。悔しい事じゃ」と言うと、その中でもとりわけ剛の者が
「見覚えていなかったのも、我ながら道理じゃわい。左近が率いていたのは皆選りすぐった者共で、七十ばかりを柵際に残し、三十ばかりを左右に立て麾を取り下知している有様は、よく考えてみれば三十ばかりの兵たちはまさに槍を合わせる際にさっと退き、味方がばらばらと追いかけるのを近くに引き寄せて、七十余人の者共がえいえいと声を上げて突き掛かり、我等を全滅させる手だてだったのじゃ。今思い出したが、誠に身の毛も立ち汗が出る。こうやって酒を酌み交わして心安い友と物語りするのとは大違い、皆は大方目の魂を消し飛ばされていたんじゃろう。もしその時横合いから鉄炮で撃ちかけていなかったならば、今頃我等の首は左近の槍に刺し貫かれていたであろう。見違えたとしてもまったく恥ではないわい」
(『常山紀談』)


関ヶ原合戦後日譚

 関ヶ原合戦で西軍が敗れた後、島左近の二男・三男は石田三成の幼息隼人を連れて戦場を逃れ、妻子眷属五六人ばかりにて、とある山里に隠れ住んだ。やがて隼人は高野山に上って出家し、左近の二人の子は母を養いつつ十年ばかり過ごしたが、兄弟二人は相談して一計を思いついた。すなわち弟を左近の子と称して縄を掛け、兄が駿府の家康のもとへ差し出したのである。
 これは「左近の子を捕らえた功績」で得た褒美で母を養うためで、計画通りに兄は褒美を貰った。しかし弟も承知の上の計略とは言え、兄は弟との別れが辛く、駿府を立ち去れずに夜毎に弟の籠のまわりをうろついていたところ、警固の士に見つかってしまった。
「母を養うため、このような計略を考えました。二人ともに島左近の子でございます。急ぎ死罪を賜りますよう。ただ、母には何とぞお慈悲を給いますようお願いいたします」
 兄の申し出を聞いた家康は兄弟の孝心にいたく感心し、母も駿府に呼び寄せて三人に扶持を与えたという。
(『関ヶ原記大全』)


殿かくしの洞

 関ヶ原合戦で奮戦空しく東軍に破れた石田三成と島左近は前後して戦場を脱し、一路北へと逃げ延びた。木之本の古橋で三成と別れた左近は、さらに高時川に沿って北へ逃れ、田戸より高時川の支流を遡り、最も奥の部落・奥川並(おくこうなみ)にたどりついた。奥川並に武将がやってくるなどは村始まって以来のことであり、人々は事情を聞くにつれ左近が由緒ある武将であることを知ると、村をあげて匿うことにした。そして村の中では危ないと、更に村の奥にある洞窟で左近を匿い、毎日替わりに食事を運んでいた。

 やがて戦のほとぼりも冷め、家康による残党狩りがこの奥地まで届かないことがわかると、左近を洞窟から村の中へ迎え、家も建ててやった。左近は村人たちの恩義に感激したが今は何も報いることが出来ないため、村の主な者に島姓を名乗ることを許した。これにより村人たちは上島・中島・生島などと「島」の字を用いた名字を名乗った。
 しかし何という運命のいたずらか、関ヶ原合戦後の論功行賞で余呉の大部分は代官領となったにもかかわらず、奥川並だけは彦根藩主・井伊氏の直轄地となり、彦根藩より検分に行く旨の通告がもたらされた。井伊氏は徳川家の重臣であり、もしこの村で敵将島左近が匿われていたと判ればどんな咎めを被るか知れず、村役たちは集まって夜遅くまで色々相談したが、妙案は浮かばなかった。そして、井伊氏の検分の日が近づいてきた。

 村人たちは背に腹は代えられず、ついに左近を殺すことにした。そしてある夜、村人数人で左近の寝込みを襲い、「はしごむし」(梯子で押さえつけて動けないようにする方法)で左近を殺してしまった。かつての戦場の勇士島左近も、信頼していた村人からこんな姿で殺されるとは、どんなに無念であったろうか。村人たちは左近の家も焼き払い、左近に関するものはすべて村から抹消した。そして左近についてはどのようなことがあっても、誰から尋ねられても絶対に口外しないと厳しく申し合わせた。
 こうして奥川並の村は彦根藩の検分を免れたが、人々の心の中には何ともやりきれない思いが残った。それ以来四百年を経た今でも、奥川並の人々はこの話が出ると暗い気持ちになるという。奥川並では左近の隠れていた洞を「殿かくしの洞」と呼び、左近の家の跡を島屋敷、裏の山を島山、上島・中島・生島の各苗字を三島と呼び、左近に関するものがたくさん残っているという。
(余呉町教育委員会編『余呉の民話』より要約)
※これらは全て原典より意訳しており、文責はMasaにあります。


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