左近関連の説明板

謎多き島左近。ここでは左近ゆかりの各地に建てられた説明板を集めてみました。


関ヶ原古戦場と彦根市本町の説明板

関ヶ原町の左近説明板
 写真左は岐阜県関ヶ原町の 関ヶ原古戦場・島左近陣跡 に建てられている説明板で、文面は以下の通り。(設置:関ヶ原町)

島左近(勝猛)陣跡
三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。前日の杭瀬川の戦いで中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中隊と奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。
関ヶ原町


 写真右は滋賀県彦根市本町の宗安寺赤門向かいの酒販店「酒売処・林屋」前に建てられている説明板で、文面は以下の通り。なお、この林屋では「鬼の左近」なる地元産の純米原酒を販売している。(設置:彦根左近の会)

「鬼の左近」
石田三成家臣 島左近清興(しまさこんきよおき)
「治部少に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われ、当時4万石の身代であった三成が、その半分の2万石の高禄で招いた武将。「日本第一の勇将」「鬼神をも欺く」勇将とたたえられた。そのずば抜けた采配の中でも関ヶ原の決戦前日、僅か500名の兵を率いて戦った奇襲作戦「杭瀬川の戦い」は、西軍すべての兵士達の動揺を一気に抑え、士気を大いに高めた勝利として高く評価されています。


長浜市石田町の説明板

長浜市石田町の左近説明板
 写真左は石田三成の生誕地・滋賀県長浜市石田町に建てられている説明板で、石田会館周辺には左近に限らず、三成ゆかりの武将のプレートを貼り付けた街灯とその説明板が設置されている。写真右は説明板の拡大写真で、文面は以下の通り。(設置:(財)石田三成公事績顕彰会)

三成の右腕 (島左近)
もとは筒井順慶の家臣で勇将の誉れ高かったが、筒井家滅亡と共に近江の国、高宮に陰棲していた。三成は秀吉から水口城四万石に封じられたとき、島左近の元に日参し、自分の武の足らざるを補佐願いたいと、誠意を込め懇願し、一万五千石の高禄で召し抱えた。秀吉は「島左近ならば一万五千石は高くはないが、自分の半分近くの禄をたった一人に与えるとは、三成の器量も大したものだ。」と感心した。左近は三成をよく助け、三成の期待通り軍事に采配をふるったが、関ヶ原の戦いで討ち死にした。


奈良県平群町の説明板

西宮城跡・下垣内城跡の左近説明板
 写真左は左近ゆかりの奈良県生駒郡平群町の西宮城跡に建てられている説明板で、直接左近の説明をしているものではないが、文面は以下の通り。(設置:平群町)

ここは西宮城の跡です
西宮城は、筒井氏の重臣、嶋氏のお城です。島左近の時には平群を中心に一万石の領地がありました。永禄2年(1559)松永久秀が大和に乱入し、信貴山城を拠点に大和を支配します。西宮城も松永方の城となり、天正5年(1577)に織田信長に攻められたときに当城も落城したようです。

 写真右は西宮城に隣接している下垣内(しもがいと)城跡に建てられている説明板で、これも直接左近の説明をしているものではないが、文面は以下の通り。(設置:平群町)

中央公園・下垣内城と廿日山弥生遺跡
当初は単郭の城と考えられ、地名を撮って下垣内城と名付けられていました。発掘調査で西に広がる事が確認され、東西150m、南北120m以上の城郭であることが分かりました。
深い堀や土を盛り上げた土塁で囲まれ、石で組んだ溝や穴が確認されています。出土遺物より13世紀に築城、17世紀にかけて使用されています。
下垣内城は中世の岡城で、土を掘り盛り上げて防御を堅めており、近世城郭のように石垣は用いられていません。
中央の南北堀は特に深く、土塁の上から8mもあり急勾配で掘削されています。
城主は鎌倉時代に福貴寺荘の下司職であった嶋氏が考えられます。すぐ東隣の安養寺に嶋左近の母親の位牌があり、郡山の筒井順慶に仕え、後に石田三成の参謀として関ヶ原の戦い(1600年)で活躍した左近との関連が注目されます。


対馬島山の説明板(再掲)

対馬・島山の左近説明板
 これは既に「検証・対馬出自説」の稿で紹介した、長崎県の対馬島山にある左近墓の入口に建てられた説明板である。文面はおわかり頂けると思うが、念のために下に記す。(設置:美津島町)

島左近の墓
島左近は安土桃山時代の武将で、智将石田三成が自分の知行の半分を与えて召し抱えた。豊臣秀吉の没後、石田三成は徳川家康と天下の覇を争い、関ヶ原の合戦で敗れた。左近は三成方西軍の名将として最後まで奮戦したが、戦いに利あらず乱軍の中を落ちのびたといわれている。


 以上、こうやって各地の説明板の文面を比較して見られたらおわかりかと思うが、直接左近の説明が書かれた四ヶ所の説明板が、その名や消息などについてはそれぞれ異なった解釈をしていることが興味深い。
 すなわち、名前については関ヶ原町では「勝猛」、彦根市では「清興」とあり、長浜市と対馬では(平群町も含めて)通称の「左近」とだけ記して名前については触れていない。また消息については長浜市では「討ち死にした」と明記しているのに対し、対馬では「乱軍の中を落ちのびた」としており、関ヶ原町では「銃弾を受けて討ち死にしたとも」と明言を避けているかと思えば、彦根市では消息については言及していない。
 さらに、左近が三成に抱えられた際の石高についても、関ヶ原町と対馬では「家禄の半分」、彦根市では「身代の半分の二万石」、長浜市石田町では「一万五千石」とあり、これまた様々な解説がされている。

 やはり、左近は謎多き武将である。


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