SCOOP!! 島左近の遺品
戸川家記念館の「忍びの緒」と久能山東照宮博物館の「五十二間筋兜」が繋がった!

ここでは左近に関して新たに発見・判明したことを臨時稿の形でご紹介します。なお、この内容は後に再編集され別項に移行します。


伝島左近兜・忍びの緒  島左近の遺品については意外に確かなものは存在せず、私の知るところでは左近着用と伝えられる「五十二間筋兜」が静岡市の久能山東照宮博物館に、また関ヶ原合戦において戸川肥後守逵安(みちやす=備中庭瀬藩初代藩主)が左近を討ち取った際に得たと伝えられる兜の「忍びの緒」(=写真)が、岡山県早島町の戸川家記念館に所蔵されているのみである。そして、今までこれらは独立した個々の遺品として、それぞれの関係機関に保管されていた。
 ところが驚くことに、今回の取材調査で戸川家記念館が蔵する「忍びの緒」は、久能山東照宮博物館の蔵する五十二間筋兜に附属するものだったことが判明したのである。この間の事情は以下の通りである。

 私はぜひ現物をこの目で見ようと思い、さし当たって比較的近い岡山県早島町へは以前に2度ほど取材予定を立ててはいた。しかしそれでも約200kmの距離がある上に雑用が重なったりして、なかなか戸川家記念館へは足を運べなかった。そしてようやく3月24日に取材に行けるメドが立ち、数日前に現地へ連絡を入れた。これが事の起こりであった。
 早島町教育委員会と戸川家記念館側のご厚意で、今回の取材に当たって事前に改めて戸川家の所蔵品を調べていただいたところ、櫃の底から戸川家記念館に常設展示中の「忍びの緒」を収納していた袋が見つかったのである。この袋の存在は以前より早島町でも把握しておられたが、あいにく現物が見つからなかったそうである。
 これが取材の3日前、しかし問題は袋の表に書かれていた文言であった。

忍びの緒収納袋  右が今回初公開となるその袋である(公開許可済)。これを一目見た瞬間、私は背筋に寒気が走った。「兜は久能山へ奉献す」・・・私は昨年から平群町教育委員会のM氏と、冗談交じりに「戸川家記念館の忍びの緒が東照宮博物館の兜のものだったら劇的なのに」と話していたのだが、何と冗談ではなくなったのである。早島町の方でも、まさかこの品が久能山東照宮博物館所蔵の兜と関係があるとは考えておられなかったようで、その場は少し興奮した空気に包まれた。

 取材から帰った私は裏付けを取るべく、久能山東照宮博物館へ連絡を入れた。事情を説明すると同博物館側でも興味を示されて今一度調査して頂けることとなり、早くも今日27日に結果報告を含めた関係資料が郵送されてきた。結果は予想通りであった。久能山東照宮博物館所蔵の五十二間筋兜は、袋の表書きに違わず、大正四年四月に旗本・早島戸川氏最後の当主である戸川安宅(やすいえ)氏から東照宮に奉納されていたことが、東照宮側の貴重品目録から判明したのである。現在この袋は「忍びの緒」とともに戸川家記念館に展示されているので、近くに行かれた際には是非一度立ち寄られて現物を御覧頂きたいと思う。

 また早島町教委より、この忍びの緒にまつわる戸川家側の資料などを頂いたので、そのうちの一部をご紹介する。

 「権現様被聞召立、上杉景勝為御退治奥州御発向之時、肥後守達安儀被召出御供仕候處、石田治部少輔三成逆乱に付、御人数濃州関ヶ原へ被指向候砌、最前郷渡川を渡り川向にで一番槍を合、自身敵討取申候。其敵石田治部少輔三成臣嶋左近(名乗不詳)、蒙御感之仰此時達安備中国於庭瀬居所被下置 (中略) 嶋左近其之節之鎧戸川定太郎家に有之候処、先年類焼之節焼失仕候。同兜内藏助家に有之候、右之趣前々より申傳候」
(『早島町史』所収「戸川安宅氏直話筆記」句読点は後補)

 資料に見える通り、当時は左近の鎧も「定太郎家」に保管されていたと見られるが、惜しくも火災に遭って焼失してしまったようである。また兜を保管していた「内蔵助家」とは、戸川肥後守逵安の子安尤(やすもと)に始まる旗本早島戸川氏の家系で、安宅氏は第十三代当主である。この記録は明治四十五年七月に安宅氏が語ったもので、この時点でまだ兜は戸川家を出ていない。安宅氏は大正四年四月に兜を久能山に奉献し、九年後の同十三年十二月八日、行年七十歳をもって永眠されている。

 こうなってくると、問題は左近が本当に戸川逵安に討たれたのかどうかである。上記では郷戸川(合渡川)を渡って一番槍を合わせ、討ち取った敵が左近であると見えるが、これは明らかな誤伝である。しかし、『戸川家譜』には以下のように記されている。

 「一 九月十五日、内府公着御有て、諸勢一度に押掛切崩す、金吾秀秋裏切して、大谷刑部少輔を打取、西勢先跡となく惣崩して伊吹山へ大方逃登る、島津計人衆一ツに丸く成りて、海道を直に退ける、落人是を頼ミに従ひ行者ハ、大坂まで心易く引ける、肥後守方の手ハ、初より定のことく加藤左馬之助先手にて、治部少輔陣所の山へ押よセ、石田三成家士六、七十騎、柵を破り一同に突て出、左馬之助勢左右に開き押包、一人も不残打取ける、此手惣勢ハ備て、抜落ハ可打取迚見物す、扨も見事成る打留様と何も被仰也、三成ハ談合迚出て我陣所に不居して、直ニ逃落ける、家人右之外散々に不残逃失ぬ、此出大将ハ島左近といふ説あり(後略)

 これだけでは判断しかねるが、解釈によっては「戸川勢は加藤左馬之助(嘉明)の先手となり、金吾(小早川秀秋)の裏切りの後に三成の陣所へ攻め寄せた。その時、三成勢の六、七十騎が柵を破って出撃してきたのでこれを押し包み、一人残らず討ち取った。この時出撃してきた大将が島左近という説がある」と取れる。『戸川記』にも「嘉明の先手と戰切死せし大将ハ島左近也と云り」とあり、家譜とほぼ同一内容の記述がある。
 左近は開戦早々に黒田隊の銃撃で負傷したところまでは判明しているが、当日戦死したとする説が有力ながら、その終焉については未だに不明である。これらの記録は「此出大将ハ島左近といふ説あり」「切死せし大将ハ島左近也と云り」と表現こそやや弱いが、小早川秀秋の裏切り後に左近を討ち取ったとしている点が注目されよう。この時点では左近の嫡男新吉信勝は既に藤堂勢に討たれていた。左近は朝の戦いで身に重傷を負っており、その上に息子の死を報されたわけである。人情的にも左近は死に場所を求めて玉砕覚悟で突撃したと見たいところであり、そうなると戸川勢に討ち取られたとする説も、今一度注目し直す必要があろう。

 こうして、忍びの緒と兜は結びついた。問題はこれが事実左近の着用していたものであったかどうかである。残念ながら現時点では何とも言えないが、こうして地道な調査を重ねていけば、いつかまた新資料の発見にも繋がることと思う。左近はまだまだ遠いところにいる。

 最後に、急な連絡にもかかわらず懇切また迅速なるご配慮を頂き、貴重な資料のご提供を頂いた早島町教育委員会・戸川家記念館・久能山東照宮博物館のご担当者様各位には、この場を借りて厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
 2002年3月27日記 文責:Masa 画像を含めた当稿の無断転載および引用を禁じます。


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