筒井氏の麾下にいた島左近は天正五年、春日大社に一基の灯籠を奉納しました。南門に向かって右手に建つその灯籠からは、今なお左近の名が読み取れます。 |
考証・左近灯籠 ご存じのように、左近の名は諸書に勝猛・清興・友之・清胤・昌仲などと伝えられ、かろうじて自筆書状(「大和の国人・島氏」の項参照)が残っている事から、「清興」を名乗ったのはまず間違いない。ただ、『根岸文書』所収のこの自筆書状は、歴史学者で大和研究の大家・永島福太郎氏が発見されたものだが、日付が欠落しており、いつ書かれたものかは判明していない。 しかし、筒井氏の下で左近が「清興」を名乗っていたと考えられるもう一つの傍証が、春日大社(奈良市春日野町)に今もなお残されている。 春日大社の正面、南門に向かって右手のエリアに嶋左近が奉納した石灯籠(=写真)がある。この灯籠は高さが201cm、火袋(火を灯す部分)は木製で四方が障子構造となっており、同社南門から南東の若宮社にかけての参道である「御間道(おあいみち)」に多く見られることから、灯籠研究家の高田十郎氏は「御間型灯籠」として分類されている。 春日大社に見られる灯籠の種類としては、他に春日灯籠・角型灯籠・角型丸竿灯籠・神前型灯籠と呼ばれる物やこれらの一部が変形した物などがあり、その数は釣灯籠と合わせて約3000基にも達するという。 さて、左近の奉納した灯籠であるが、軸部上部中央に「春日社奉寄進」、引き続いて下部に右から順に三行で「天正五年丁丑」「嶋左近烝(注1)清興」「卯月廿二日」、そして下端には横書きで「敬白」と刻まれている。 戦国期の筒井氏麾下における左近を含む大和島氏の事績は、筒井氏の動向の陰に隠れてしまったのかほとんど確かな記録には見られないため、この灯籠銘文は左近が「清興」を名乗った傍証として貴重な資料であり、日付の明記された「物証」としては、現時点ではおそらく唯一のものと思われる。 なお、春日大社様のご厚意により、今回特に灯籠銘文の拓本をご提供いただいた。上の画像クリックでリンクしてあるので、ぜひご覧頂きたい。 【注1】「烝」の部分の字は該当漢字がないため、便宜上こう記した。実際の文字は画像でご判断下さい。 ※この灯籠は立入禁止区域内にあり、近寄ってご覧になることは出来ません。画像は春日大社様の許可を頂いた上で撮影・掲載しています。(禁無断転載) 大和島氏においては、諸書の記録から嫡流が代々左近を名乗った可能性が高く、この天正五年前後には「左近丞清興」が筒井氏麾下で活躍したことは、まず確実と見て良いであろう。 この灯籠が奉納された天正五年四月という時期は、前年の五月十日に筒井順慶が織田信長から大和守護に任ぜられて以来、大和の支配を固めつつあった時期である。直前の(天正五年)二月には信長は十万もの大軍を動員して紀州・雑賀征伐を行っており、筒井順慶も滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂谷頼隆・細川藤孝らとともに浜手からの攻撃軍として参陣、雑賀衆の籠もる中野城を攻め落としている。左近も当然ながら順慶の陣中に従っていたことであろう。 左近は筒井氏の麾下、また春日大社の神人として、ようやく復権を果たしつつある嶋家の安泰と武運長久を願って、この灯籠を寄進したものと思われる。周囲には年代こそ異なるが、俗に「筒井の三老」と呼ばれた松蔵氏や森氏寄進の灯籠も見られる。左の写真は左近の灯籠から程近い「御間道」沿いにある松蔵氏寄進の灯籠で、奉納者名は「松蔵弥七郎政秀」とはっきり読みとれる。寄進日時は天文二十二年正月朔日(元旦)である。 そして左近の願いが通じたのか、半年後の同年十月には筒井氏の宿敵で再び信長に背いた松永久秀が信貴山城に滅び、筒井氏の大和支配と嶋氏の本拠地平群谷の回復が、ここにようやく実現する運びとなる。 「考証・茶々逆修」の稿でも述べたが、この後信長の指図により筒井順慶は大和平静化に向け活躍し、左近は久秀によって焼かれた自領平群谷金勝寺の復興に務めたと思われる。 なお、灯籠に彫られている「嶋左近烝清興」の「興」の字がやや不鮮明で、『奈良県史 金石文(下)』 には「嶋左近丞清胤」と紹介されているが、春日大社では平成燈籠調査会の精査を踏まえた上で「清興」と判断されておられるため、本稿では「清興」を採用させていただいた。 ※文責:Masa 資料提供:春日大社/平成燈籠調査会 2001年8月26日作成 本稿の無断転載及び引用を禁じます。 |