浅井畷の戦い
〜丹羽長重の関ヶ原〜

大聖寺城を落とし、北越前を平定した前田利長は金沢城へ戻ります。しかし、途中に控える強敵・小松城主丹羽長重が、山口父子の弔い合戦とばかり利長勢に襲いかかります。ここに加賀最後の戦いとなった「北陸の関ヶ原」とも呼ばれる激戦が繰り広げられました。


利長、金沢へ

 利長は北越前を平定し、西軍加担を表明して垂井から敦賀へ戻った大谷吉継を牽制したが、ここで何故か一旦金沢へと戻ったのである。理由には諸説があり、敦賀に集結した西軍が海路金沢を攻めるという報に接した、丹羽長重が領内に侵入した、仲の良かった戸田重政から「功を焦ると危ない」という忠告を受けた、上杉景勝の煽動により起こった越後堀秀治領の一揆への支援を受けた云々。はっきりと断定はできないが、このうちいくつかが絡んでいたのであろう。ただ敦賀に戻った大谷吉継が利長の動向に無関心であるはずはなく、おそらく彼が利長を金沢へ戻して時間を稼ぐための何らかの策略を施したであろうことは想像に難くない。『大津籠城合戦記』にこうある。

 「此時宰相高次ハ、此諸将等ハ未北國ニ下向無内、然ルニ利長細呂木ヨリ引返サレタル風聞故、直ニ越前北ノ庄ニ趣カレタリケルニ、大谷吉隆ニ對面セシガ、我等ガ謀ヲ以テ前田兄弟ヲ退ケタリ、乍去是ハ各一且下着有ル迄ノ暫時ノ謀略ニテ、長久ノ手便ニ非ズ、利長兄弟再ビ當國ニ進ムベシ、其時各諸共ニ兄弟ニ向フテ花ヤカニ一戦ニ及ブベシ」

 実際に大谷吉継がこのような策謀を弄して利長を欺いたかどうかはともかく、彼は金沢へと戻っていったのは事実である。
 一方の丹羽長重は、大聖寺城の山口父子からの救援要請を受け出陣するにはした。しかし救援には間に合わず、利長領に侵入して少々の焼き働きをするに止まった。これが八月四日、大聖寺城落城の翌日のことである。

 さて、利長は八月七日の夜半、先発隊を加賀御幸塚城(現小松市今江町)に入れ、自身は三道山城(現能美郡寺井町三道山・三堂山とも書く)に陣を進めた。なおこの「御幸塚」は当時は「ごこうづか」と呼んでいたそうだが、現在は「みゆきづか」という。その御幸塚城の諸将は本体との合流ルートについて軍議をした結果、敵を避けて迂回するよりは、加賀武士の本領を示すべく七隊(一説に六隊)の軍を編成し、小松の丹羽領を突破して合流することに決した。七隊の大将は先鋒から順に山崎長徳・高山右近・奥山栄明・富田直吉・今枝民部・太田長知、殿軍は長連竜(六隊説では殿軍が太田と長)という面々である。

 これら前田勢が御幸塚城を出陣、殿軍の長連竜隊が大領野を出て山代橋方面へ向かおうとしたとき、丹羽勢の伏兵江口三郎左衛門正吉の一隊が長連竜隊に襲いかかった。折り悪く天候は夜半からの雨が降り続き、鉄砲隊は用を為さない。ここに両軍による白兵戦が展開された。場所は浅井畷(現小松市大領町周辺一帯)の桑畑である。


浅井畷の戦い

浅井畷古戦場碑  小松城からの援軍が次々と到着、前田方の長連竜隊は大苦戦となった。両軍とも自慢の勇将が激突、丹羽方では松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門ら多数の将が討死し、前田方でも長家の九士小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助をはじめ多数の将士が落命した。左の写真は小松市大領町に残る古戦場跡の碑で、討死した前田方の長家九士の墓が現在もここ浅井畷の木立の中に散らばって残っており、それらの墓は皆それぞれの倒れた方向に向けて建てられているという。 ( →こちらに画像あり )

 悪戦苦闘しながらも連竜がなんとか兵をまとめて山代橋に差しかかった頃、急を聞いた前田方の先発隊と松平康定が救援に引き返して駆けつけ、追いすがる丹羽勢を追い返した。このとき上阪又兵衛は丹羽勢を追撃しようとしたが、山崎長徳に止められ、戦いは勝敗は付かず双方痛み分けの格好で終結する。戦後、山崎は利長から戦機を誤ったとしてひどく叱責されたという。

浅井畷古戦場碑  八月十三日、金沢に戻った利長はこの戦いの一番槍を松平康定とし、奮闘した将士に感状や刀剣・黄金を与えたが、それも束の間、同日付けで家康から再出馬を請う書状が届く。しかし利長は準備こそしてはいたが、弟利政の猛反対もあり出陣を躊躇していた。そんなところへ九月八日付で家康から出陣催促状がもたらされる。意を決した彼は九月十一日に出陣、三道山まで軍を進めたときに丹羽長重から和を請う使者が発せられた。利長はこれを受諾、人質の交換などを約して九月十八日に小松城に入った。なお、三成ら西軍は三日前の九月十五日に関ヶ原で壊滅していた。

 これが結果的には丹羽長重の降伏という形で終わった「浅井畷の戦い」である。長重はこの後所領を没収されるが、三年後の慶長八年に常陸古渡一万石を給され、最終的には陸奥白河十万石余の城主となった。現在同古戦場跡には右の写真にあるような句碑が建てられてこの加賀最後となった戦いを今に伝えており、その碑には次のような句が刻まれている。

松風や 慶長の夢 雁がなく

長重の墓は福島県二本松市成田町の大隣寺にある。


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