福知山城の戦い
〜小野木重勝の関ヶ原〜

九月十五日、関ヶ原で西軍は大敗しました。同月二十三日、先に丹後田辺城の細川幽斎を攻めた丹波福知山城主・小野木重勝のもとへ、今度は細川忠興が攻め寄せます。


小野木重勝

重勝ゆかりの寿仙院  小野木重勝の出自や幼少時のことはあまりよくわからないが、秀吉の直臣で名は重次・公郷・公知・国方ともあり、通称は清次郎(一説に又六とも)である。彼は秀吉がまだ長浜城主だった頃、その黄母衣・大母衣衆を務め、直参として二百五十貫文を給されていたらしい。また秀吉が関白となった天正十三年には石田三成・大谷吉継らとともに任官し、従五位下縫殿介となっている。
 ただ、『籾井家日記』によると、天正年間初頭に丹波を支配していた波多野氏の武将の中に、西丹波先鋒頭衆を務めたとされる小野木縫殿助吉澄がおり、信長の丹波攻略の際に秀吉に款を通じたとされている。『丹波志』には赤井直正に滅ぼされた福岡城主兎ノ木縫殿助の名が見え、過去帳に「福岡城主小野木縫殿介」とあることから、同一人物ではないが、重勝と同族または近い関係にあったのではないかと思われる。
 写真は重勝ゆかりの寿仙院 (亀岡市本町) で、ここは彼が自刃した地と伝えられ、墓が現存している(下に画像あり)

 重勝が福知山城主となった時期はよく判らないが、『福知山市史』では「天正十五年からあまり遠くない以前」としている。『天田郡志史料』では天正十三年としており、上記の任官後程なく城主となったのかもしれない。それはともかく、彼はこの後秀吉の九州征伐に従い、朝鮮の役でも渡海して忠州城木曾(ホクソ)を攻めている。なお、この時足軽以下に薄い鉄製の兜を着用させたのが、後に「小野木笠」と呼ばれるようになり、家康もこの利便性を認め「急ぎの時の炊飯にも使える」と晩年に述べている。(『常山紀談』)


福知山城の戦い

 重勝は先にも述べたように、細川幽斎の籠もる田辺城攻めに出陣して九月十八日に開城させたのだが、ここに関ヶ原での西軍敗報がもたらされ、重勝はあわてて囲みを解き、大砲など武器をうち捨てたまま居城に逃げ戻った。

亀山城跡  さて、こちらは細川忠興である。彼は開城した父幽斎はさておき、重勝や丹波亀山城主前田茂勝に深い恨みを持った。彼はこの戦いの初頭に最愛の妻ガラシャを失っていることもあり、その恨みと怒りの激しさたるや、家康も瞠目するほどであったという。写真は現在の亀山城跡(現亀岡市荒塚町)であるが、ここはかつて明智光秀の居城であったところで、今ではとある宗教法人の所有となっており、その本部が置かれている。
 関ヶ原から凱旋してきた彼は、家康から亀山・福知山両城の攻撃許可を取り、亀山城の手前馬堀(現亀岡市篠町付近)まで来て父幽斎と対面する。そして亀山城に使者を出し、城を退去しないならば直ちに攻め落とすと通告した。前田茂勝は元々積極的に西軍に属したわけではなく、彼自身も弁明に務めまた幽斎の取りなしもあり、ここで忠興はようやく茂勝に対する怒りを鎮めた。折から木下家定の使者も来着して田辺城包囲軍に加わったことを陳謝、忠興はこれらを福知山城攻めの先鋒に従えて二十二日、亀山城を出陣した。

 翌日生野(現福知山市長田野町付近か)に着陣し、ここで田辺城攻めに加わった山家の谷出羽守・上林の藤掛永勝・中山の川勝秀氏らの出迎えを受け、彼らを先手として城下へと軍を進めた。ただ、福知山城は要害であったため包囲はしたものの力攻めを避け、指揮を叔父の玄蕃昌興に任せて彼は戦場を一旦離れた。何をしていたかというと、舟で由良川を下って田辺城に向かい家族と再会、さらに大坂へ行き家康に謁した上で再びここへ戻って来たのである。

福知山城  福知山城(=写真)内の重勝は、井伊直政を介して助命を請う一方で抗戦し、忠興が再び現れてからちょっとした戦闘が行われた。蛇ヶ淵の堀が深く寄せ手に溺死者が出たことから、忠興は南の岡から攻める。五千俵の土嚢で仕寄り場を築いたが、城内からの鉄炮や弓の射撃で沼田藤左衛門や鉄炮衆四・五人が戦死、そう簡単には城は攻略できなかった。このとき家康の内意を受けた山岡道阿弥(景友)が来着し、細川・小野木両者の仲裁に入る。小野木には助命を条件に開城して剃髪出家を求め、忠興にはそれを以て無駄に兵を損失しないため攻撃を停止させるというものである。

 重勝は長期籠城で兵糧も乏しく、逃散する兵も出ていたこともありこれを受諾、下城して亀山の寿仙院(庵)に入って剃髪し、前田茂勝を介して助命を嘆願した。しかし忠興はさらさら彼を許す気はなく、そこで切腹させたとも、亀山城の幽斎のもとへ連れて行きその面前で切腹させたとも伝えられている。これには異説もあり、『佐々木旧記』では城兵が五十人ほどになるまで戦い、重勝は夜に紛れて城を脱出、翌朝忠興勢が一斉に攻め込んできたときに家老の寺田舎人が重勝の名を語って一人天守に残り、細川勢の悪口を散々言った後に切腹したという話が載せられている。

重勝の墓  場所は亀山城・寿仙院(庵)のいずれにせよ、重勝はついに許されることなく、十一月十八日に自刃した。『關原始末記』によると、重勝の首は京都三条河原に曝されたという。写真は寿仙院にある彼の墓である。ご住職のお話では、今なお北海道などからも末裔の方が墓参りに来られるそうな。そして、夫の訃報を聞いた重勝の妻もまた、辞世の歌一首を残して自害したという。

鳥啼きて今ぞおもむく死出の山 関ありとてもわれな咎めそ

 「今、私も夫の後を追って旅立ちます。たとえ関所があっても私を咎めず通して下さい」・・・何と悲しい歌であろうか。彼女はこの一連の戦いで、先に父を失い、そして今また最愛の夫を失った。今更ながら、戦国の世の非情を思わずにはいられない。

 彼女の父の名を、島左近清興(勝猛)という。


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