美濃福束(ふくつか)城には丸毛兼利がいました。石田三成は早くから彼を誘い、西軍につけます。小城とは言え、ここはそれだけ戦略的に重要な場所にあったのです。 |
![]() ![]() 福束城は、大垣市南端に隣接する岐阜県安八(あんぱち)郡輪之内町福束にあったのだが、後にすぐ横を流れる揖斐川の流れが変わったため、城跡そのものは水没してしまったという。写真は現在の揖斐川左岸・輪之内町福束で撮影したもので、城は左手から中央部にかけて見える堤防のあたりにあったのではないかと推定されている。 地図を見ればすぐわかるのだが、ここは揖斐川とその支流(水門川・牧田川・相川・大榑川など)の近くにあり、位置的にも大垣から南へ二里(現在の名神大垣ICから南へ2km)ということもあり、伊勢湾から大垣方面への舟運の重要な拠点であった。したがって三成は早くから彼を味方に誘い、攻撃拠点というよりも、もっぱら城の防御を固めさせて兵糧や武器の補給拠点としての任務を与えていた。 ![]() ![]() ![]() さて両将が帰国してみると、美濃の情勢は彼らの予想を上回って西軍に傾いていた。国内のほとんどが西軍に加担しているのである。これは後で述べるが、岐阜城主織田秀信が西軍に加担した影響が大きい。市橋・徳永の両将は急ぎ城の防御を固めた。この頃清洲にいて家康の出馬を待っていた福島正則は、配下の尾張赤目城主横井伊織介を丸毛兼利の家老丸毛六兵衛に派遣し、翻意して東軍につくよう説得するが、兼利はこれを拒否した。この報を受け、正則は、市橋・徳永と相談の上で横井伊織介をその援軍として加勢させることとし、両将に福束城の攻略を命じた。 ![]() 右の写真は福束城ゆかりの福満寺で、当時は福束城の敷地内にあったが(同寺には福束城の絵図面が現存する)、川の流れが変わった際にこの場所へ移転したという。 川幅が広いため膠着状態が続いていたが、東軍勢が一計を案じ、夜半密かに別働隊を編成し、遠く迂回して福束の北東に位置する楡俣村へ潜入させた。この別働隊が付近に放火したのを合図に、全軍が一斉に渡河を始め攻撃を開始したのである。西軍は予期せぬ敵が背後から攻め立てて来たので驚き、伊藤勢らは堤防伝いに大垣城へと逃げたが、丸毛勢は福束城に籠城した。 引き続いて東軍は福束城に攻め寄せる。兼利は支えようとするが、勢いの差が大きく支えきれず、ついに城を捨てて大垣城へと敗走した。兼利は関ヶ原合戦後は前田利常に仕えて二千石を領し、入道して道和と号した。没年は正保四(1647)年一月二十八日という。彼は永禄十二(1569)年の信長による伊勢大河内城攻めに従軍したと記録にあるから、享年不明ではあるが、非常に長寿を保った武将である。 東軍はこうしてさしたる損害もなく福束城を落とし、小さな戦いではあったが、美濃における緒戦を幸先良く勝利で飾った。 |