「関ヶ原」の影響を受けたのは全国の大小名だけではありませんでした。本願寺の教如上人は関東からの帰り、西軍方に狙われ辞世を詠むほどの危機に遭遇します。 |
教如上人の受難 顕如上人こと本願寺光佐の子・教如上人(光寿)は、慶長五年七月に従者十数名を供に関東へ下向した。前年関東地方は天候が不順で凶作の年となっており、表向きは関東の門徒達の見舞いということであったが、内実は異なっていた。西軍方の策謀を関東の家康に報せるためだったのである。教如上人は顕如の嫡男で、文禄元(1592)年に顕如が歿した後に一旦本願寺門跡となるが、内紛が起きて時の権力者秀吉は教如の弟准如(顕如三男・光昭)を門跡と決めていた。 さて教如上人は関東下向にあたり佐和山城へ立ち寄っているのだが、その際に三成から強く引き留められた。上人の思惑は三成に見通されていたのである。三成は制止を聞かずに出立した教如上人の後を家臣に命じて追わせたが、上人は追っ手から上手く逃れて関東へたどり着く。しかし家康は上人を内心では歓迎していなかったようである。彼の伝える情報などは一足早く掴んでおり、彼ら門徒衆の力を借りる必要などなく、借りると後々に面倒なことになると思ったのかもしれない。家康は表向きは歓迎して名馬を贈り、尾張までの帰路の安全を手配してやった。しかし、上人にとって問題はそこから先だったのである。 上人は関東での巡拝や見舞いを済ませ、帰途についた。尾張までは何もなかったが八月に美濃に入ると、もはやここは戦場であった。上人は取りあえず西方寺(現羽島市足近)に転がり込み、戦況を見定める。しかし上人が大垣方面へ向かう途中の墨俣の渡し場あたりで、その帰還を知った三成方の襲撃に見舞われた。この時は近郷の門徒衆が総出で鋤や鍬を得物に打ち振って必死で上人を守り、安八郡の光顕寺(現安八郡安八町森部=写真)へと匿い、上人は本堂の須弥壇(しゅみだん)の下に潜り込んで隠れ、かろうじて敵(?)の襲撃から逃れることに成功する。しかし、須弥壇の下で息を潜めていた上人は、もはやこれまでと覚悟を決め、なんと鏡板に辞世の句を彫りつけたのである。 この幻となった辞世の句が刻まれた鏡板は、教如上人および蓮如上人の画像とともに、同寺の寺宝として今なお大切に保管されている。 土手組の活躍 さて、こうして教如上人は何とか一息つくが、ここは美濃の地、京都はまだまだ遠い。そこで近郷の信徒の中から屈強の者八十二人が選ばれ、土手組(どろてぐみ)と呼ばれる安八・本巣・稲葉郡のうちの近郷関係十五村の二十ヶ寺が奉仕して上人を京都まで護衛することとなった。 新たに土手組の護衛を加えて光顕寺を出た上人一行は、続いて安八郡平野庄草道島(そうどうじま)の西圓寺に入るが、程なくこれは三成方が探知するところとなり、「教如を討ち取れ」と命を下して西圓寺に兵を差し向けてきた。ここに上人の危機を聞きつけた揖斐春日谷(現揖斐郡春日村)の住民たちは、急ぎ屈強の者二十七名を選んで上人救援へと西圓寺に向かわせた。彼らはかつて石山本願寺の合戦や伏見の御閉門打ち破りなどに赴いたことのある強者で、身には襤褸(ぼろ)を纏って顔には鍋墨を塗り、人とも鬼とも付かぬ異様の形相で得物を引っ提げて西圓寺に向かったという。写真は大垣市草道島町にある現在の西圓寺である。 西圓寺ではもはや教如上人のお命が危ないと感じたため、たまたま西圓寺の住職が上人と似ていたことから身代わりに仕立て上げ、申の刻(午後四時)に岐阜の織田秀信のもとへ行く素振りを見せ東へと走らせた。そしてこれとほぼ同時に「本物」の教如上人は春日谷から駆けつけた信徒らに背負われて北へ逃れたのである。 上人は逃げた。西圓寺から正光寺(現揖斐郡池田町片山)、西方寺(現揖斐郡池田町般若畑)へとたどり、ここから粕川谷に入って遍光寺(現揖斐郡春日村下ヶ流)、寂静寺(現揖斐郡春日村上ヶ流)、明随寺(現揖斐郡春日村香六)と粕川谷の裏街道をひたすら西へと走った。しかし身代わりとなった西圓寺の住職は追っ手に捕らわれて討ち取られてしまう。一説に討ち取られたのは西圓寺住職の仕立てたさらなる身代わり(末寺の僧)とも言うが、ここではこれ以上追究はしない。 いずれにせよ上人の身代わりとなった僧が三成方に討ち取られたのは事実で、三成は首実検を行った。しかし教如の首ではなかったため怒り、百余人の兵をさらに春日谷へと出動させた。 三成は今度は容赦なく街道筋を押さえ、寺社民家に至るまでくまなく捜索する。このとき教如上人は美束付近を彷徨っていたと伝えられるが、軍勢に囲まれると家臣や土手組の面々、近郷の百姓衆が果敢に立ち向かって上人を守った。しかし捜索は厳しく、窮した上人は美束から西へ入り国見岳の中腹にある岩窟に身を隠す。上人は数日間この岩窟に隠れ、かろうじて村人達の捧げる粗食で命を繋いだという。なお、この岩窟は現存していて教如岩(上人窟)または鉈ヶ岩と呼ばれているそうである。そして受難続きの上人にようやく朗報が飛び込んだ。 九月十五日、三成らが関ヶ原で敗れたのである。ここにようやく上人は危機を脱し、村でしばらく休養した後に国見峠を越えて近江長浜へ降り、やがて京都の地を踏むことが出来たのである。しかし、犠牲者も多かった。先に述べた土手組八十二名のうち十九名が戦闘により落命した。写真は安八町森部の光顕寺近くに建つ、上人を守って落命した土手組壇徒たちの供養塔である。 西圓寺では教如上人の遭難と住職の徳を偲んで太鼓堂が建てられ、「二人の上人」が寺を出立した申の刻には太鼓を打ち鳴らし、これが「四時太鼓」と呼ばれて長い間鳴らし続けられたという。 |