石垣原の戦い
〜黒田如水の関ヶ原〜

当時九州の豊前中津城には黒田如水(官兵衛孝高)がおり、家康に従って出陣した子の長政の留守を守っていました。三成挙兵の報せを受けた如水は、チャンス到来とばかり微妙な動きを始めます。


豊後の情勢

 豊前の隣国・豊後(現大分県)には、当時の石高順に見ると竹田城の中川秀成(七万七百石)を筆頭に、臼杵城の太田一吉(六万五千石)・佐伯城の毛利高政(二万石)・高田城の竹中重利(二万石)・富来城の垣見一直(二万石)・安岐城の熊谷直盛(一万五千石)・府内城の早川長政(一万石)といった大名たちが存在、また細川忠興所轄(本領は丹後宮津二十三万石)の杵築城(六万石)には城代松井康之と有吉立行がいた。関ヶ原直前の時点では熊谷・毛利は大垣におり、早川は丹後田辺城攻撃に加わり、太田もまた西軍方に属していたが、竹中・中川ははっきりとは態度を決めかねていた。ところで、なぜ丹後宮津の細川家が遠く離れた九州は豊後杵築に所領があるのかというと、これにはちょっとした子細がある。

 忠興は前田利長の縁者であったため、「利長謀反」の噂が流れた際、細川家にも嫌疑がかけられた。あわてた忠興は家康の下に何度も書状や誓紙を送って弁明に務め、ようやく許される。さらに三男の光千代(後の忠利)を人質として江戸に送ったのだが、この一連の行動を家康から評価され、慶長五(1600)年二月七日に「大坂の台所料」なる名目で杵築六万石を加増されたのである。


策士如水始動

 さて、隠居して悠々自適の日々を送っていた如水のところへ、三成からの西軍加担要請の密書が届いた。彼は使者に笑って「九州において七カ国の恩賞を頂けるのならお味方いたしましょう」と答えて返し、すぐさま行動を開始した。もちろん本気で西軍に加担するつもりはない。三成の敗戦を予想した彼は、まず工事中だった城の修繕を中止させ、高田城主で故竹中半兵衛重治の従兄である伊豆守重利を東軍に誘った。この機会に隣国を攻略し、少しでも所領を拡大しておこうとしたのである。いや、ひょっとすると策士如水のこと、本気で九州を平定して家康と互角に対峙するつもりだったのかもしれない。ただ城内の兵の大半が長政に同行していて少なかったため、彼は備蓄していた米や銭を大量に放出して老若男女を問わず兵を募り、ひたすら浪人をかり集めた。そして第一次募集だけで三千六百人が集まり、あっという間に八千程の兵力を作り上げたという。
 同じ頃、西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元や宇喜多秀家は、大坂にいた太田一吉の子一成に豊後杵築城の接収を命じた。彼は早速領国へ戻って杵築城の守将松井康之に使者を発するが、康之は怒ってこれを追い返した。太田父子は杵築城を攻めにかかるが、如水は大砲三門を、加藤清正は食糧と弾薬などを城中に送ってこれを支援した。

 ここに大友義統という人物がいる。かつては島津・龍造寺氏と「九州三国志」とも言える三つどもえの戦いを演じた、豊後国主大友宗麟の子である。義統は秀吉から豊後一国を安堵されていたが、朝鮮の役で敵前逃亡したとして改易され、この頃周防に不遇をかこっていた。毛利輝元等は秀頼の命と称して「御家再興のチャンス」とばかりに義統をたきつけ、九州へ攻め入らせた。勇躍した義統は九月九日に長門から海路豊後に上陸、立石(現別府市)に陣を構えて杵築城に狙いを定める。竹田城でこの挙を聞きつけた田原紹忍ら大友旧臣が合流、こちらもあれよあれよという間に三千近い軍勢となった。如水は義統に東軍につくよう勧めるが、彼は聞き入れない。杵築城の松井康之から救援要請を受けた如水は、とりあえず先発隊として援軍(一説に三千とある)を杵築に向かわせ、自らも早速この急場拵えの軍勢を率いて出陣した。


如水、杵築城へ

 中津から杵築までの間には、順に高田・富来・安岐の各城がある。九月十日に高田城付近に到着した如水は、竹中重利に参戦を求める使者を出すが、あいにく重病を患っていた重利の返答が遅れた。そこで城攻めの姿勢を見せて威嚇すると、驚いた重利は子の重義に兵二百を添えて差し出した。如水はこれを加えて軍を進める。途中の富来・安岐両城は、西軍に属し美濃に出陣中の城主垣見一直・熊谷直盛に代わって筧利右衛門と熊谷外記がそれぞれ五百ほどの兵で守っていたが、如水はこれを後回しとし、押さえの兵を残しただけで杵築へと向かった。一方、松井康之と有吉立行の守る杵築城ではすでに大友勢の攻撃を受けており、三の丸・二の丸は破られ、十二日には本丸で激闘が行われていた。しかしここへ如水の先発隊が到着して城外に殺到したため、大友勢は囲みを解いて立石へと撤兵した。まさに間一髪のことであった。
 さて援軍を得て勇気百倍した杵築城の松井康之と有吉立行は、戦機を逃すなとばかりに如水の先発隊とともに出陣、翌十三日未明に立石へ向かった。守勢から一転攻勢へ、まさに電光石火の変わり身である。これを聞いた大友勢は、九百の兵を三段に分けて待ちかまえる。そしてこの日の昼頃、両軍は激突した。場所は立石とその北にある実相寺山の間に開ける石垣原である。


石垣原の戦い

 両軍は三日間で計七度の激闘を演じたという。初めのうちは大友方もよく頑張ったが、如水の本隊が十三日夕刻に到着したため数に勝る黒田勢に押され、立石の本陣へ退いた。如水は翌十四日に大友方本陣の立石を三方から囲み、強攻策を主張する家臣の意を退け、降伏勧告を行った。もはや戦意を喪失していた大友方の総大将義統は翌十五日に剃髪して降伏、母里太兵衛らによって護送され、中津へと送られた。両軍の死者は大友方二百余、黒田方三百七十余というから、大友勢もよく頑張ったと言えよう。しかし、黒田方もさることながら、大友方では先鋒左翼の将・宗像掃部助鎮続、右翼の将・吉弘加兵衛統幸らほとんどの将が戦死した。余談だが、この吉弘統幸は無双の槍使いとして有名で、血筋としては筑前岩屋城で壮絶な最期を遂げた高橋紹雲の甥、すなわち立花宗茂の従兄にあたる人物である。

 この後如水はすぐに軍を返し、十七日には安岐城を包囲、亀甲車で城壁を崩し、間断なく大砲と火矢を城内へ射込んで威嚇した。頃を見計らって誘降の使者を送ったところ、守将熊谷外記は十九日に降伏、無血開城に加えて城兵の大半までも得るという結果となった。数を増した如水勢は続いて富来城へ軍を進め、誘降の使者を出すが筧利右衛門は拒絶したため、射撃などを加えて威嚇する。そこへ幸運な情報が飛び込んできた。
 如水は富来城を包囲した際、海上にも哨戒船を配置していたのだが、これが上方からの飛脚船を捕らえた。そこには城主垣見一直から利右衛門に宛てた西軍の敗報を認めた密書があったのである。如水は早速これを城内に送って「早々に降伏すれば、城兵の命は皆助ける。当家に仕官を望む者は高禄で召し抱える」と再度降伏を勧告した。かくて十月二日に富来城も無血開城、城兵の大半をこれまた収めたのである。
 さらに如水は臼杵城をも収め、別働隊に佐伯・角牟礼・日隈城を攻略させ、あっというまに豊後を平定してしまう。次に如水は北へ向かい、中津を素通りして香春岳・小倉両城も落とし、なんとわずか一ヶ月余で豊前・豊後二カ国を手中に収めてしまうのである。

 家康は国元の如水が兵力を持っていなかったため、やや軽視していた嫌いがある。ここ九州北東部では、秀吉さえ恐れた如水の知謀と行動力・統率力が遺憾なく発揮された。しかしその如水にも、さすがに西軍がわずか一日で敗れ去るとは予想できなかった。西軍の敗報を知った如水は、どんな気持ちで以後の城攻めを行ったのであろうか・・・。この後久留米城や柳川城攻めにも活躍した如水だが、家康は子の長政には筑前に大封を与えたものの、如水には何の恩賞の沙汰もなかった。


INDEX  NEXT(長谷堂城の戦い)