さて、今度は目を少し北に向けてみます。慶長五年当時、美濃北部の郡上八幡(ぐじょうはちまん)には稲葉貞通がいましたが、ここは本来遠藤氏の所領でした。やはりここにも、小領主ゆえの苦悩と戦国の人間模様がありました。 |
八幡城と遠藤氏 八幡城(=写真)は岐阜城から北へ約十四里(56km)、現在のJR郡上八幡駅北東約2kmの郡上市八幡町柳町にある。この城は永禄二(1559)年、鎌倉時代から当地を支配していた名族関東千葉氏の支族・東(とう)氏(当時の当主は常堯)を追い出して同郡の統一に成功した遠藤盛数によって築かれた。なお、東常堯(とうのつねたか)は岳父の飛騨白川帰雲城主・内ヶ島兵庫頭氏理のもとへ身を寄せて領土奪還を狙うが、天正十三年の大地震により氏理共々帰雲城内で圧死し、内ヶ島氏とともに滅亡するという悲運に遭っている。 遠藤氏は元々東氏の一族で、盛数の妻は常堯の妹である。当時美濃斎藤氏の麾下にあった遠藤一族の中でも、特に盛数と甥の木越城主胤俊が力を持っており、これらは「郡上の両遠藤氏」と呼ばれていた。そしてこの二家が協力して郡上郡一帯の統一に成功したのである。しかし盛数は程なく歿したため、子の左馬助慶隆が十三歳という若さで家督を嗣いだ。余談だが、後に「内助の功」の話で有名な山内一豊の妻・千代は慶隆の妹で、八幡城下の公園に 山内一豊夫妻の銅像 が建てられている。 さて、その後織田信長が斎藤氏を滅ぼして美濃を掌握すると、慶隆は信長の麾下に属してはいたが、武田信玄・朝倉義景らと反信長勢力として活動しようとした。しかし信玄が病歿したため急激に雲行きが悪くなり、信長に郡上を攻められ降伏、後はひたすら忠実に軍役を務めている。しかし天正十年に信長が明智光秀により本能寺に滅び、備中にいた秀吉が急遽引き返してこれを討ち「天下」の主導権を得た際、美濃諸士の多くは秀吉に属したが、両遠藤氏は織田信孝に属した。秀吉方は美濃武儀郡の諸氏を動員して須原・洞戸に砦を築き、郡上と岐阜の連絡を遮断させた。しかし両遠藤氏はこれをすぐさま攻め落とし、立花山(現美濃市立花)に砦を築いて立て籠もり秀吉勢に抵抗したのだが、この行動が「天下人」秀吉の心証を悪くした。 やがて信孝も秀吉に降伏、慶隆らも秀吉軍に人質を送って降伏、以後は秀吉に忠実に仕えるのだが、天正十六(1588)年に秀吉から八幡城二万石余を没収され、加茂郡小原(おばら)城(現加茂郡白川町河岐字西ヶ小井戸=写真)七千五百石に封地替えされてしまったのである。さらに胤俊の甥の小八郎胤直も加茂郡犬地(いぬじ)城(現加茂郡白川町三川本郷)五千五百石に移され、ために両遠藤氏は従来通り家臣を養うことが出来ず、家臣の三分の一が去ったという(石数は異説あり)。なお、これらは城と言うより、その規模などから「砦」または「塞」と言った方が適切かもしれない。文献には慶隆の当時の石高を一万三千石と記したものもあるようだが、これは「両遠藤家」を合わせての石高なのである。慶隆とすれば、当然面白くなかったに違いない。ここに彼が東軍へと加担していった伏線がある。 そして秀吉も世を去った慶長五年、慶隆と胤直の間に小さなドラマが起きた。 上ヶ根の戦い 美濃では岐阜城主織田秀信が西軍につき、両遠藤氏(慶隆・胤直)は七月に岐阜城へ呼ばれ、秀信から西軍加担要請を受けた。周囲はほとんど西軍一色である。慶隆は即答を避けて小原に戻り、弟慶胤や老臣達とこれを協議した。この時の慶隆の心情が『遠藤記』にこうある。大意は略すが、慶隆が秀吉や三成に含むところがあったことがよく見て取れる。 三軍ハ得安し一將得がたし西方たとえ大軍以て戦ふとも采配にて諸大名ヲ合スル一將なし石田増田等諸輩ヲ合スルとも秀秋秀家杯渠等が下知ヲ守るべき柄にあらず、仍之三軍一致不可為然バその時地の理人の和に不当とこそは思へり又家康公のきりやうヲ窺ふに当然の英雄誰か及ぶへきぞ殊ニ代々の領地郡上ヲ秀吉公に被召上少々の所ヲ給ふ事偏に石田三成前田徳善院等の計ひニて稲葉贔屓に依てなり然バ弥々関東味方致すべし ここに『白川町史』に面白い話が載っている。慶隆はこう意見を述べたものの、老臣達には西軍には抗しきれないと心配する者が多かった。そこで筮を探らせたところ、東軍開運の卦が出たことにより全員が一致して東軍加担を決めたというのである。つまり「占い」で決めたわけで、必死だった当事者達には申し訳ないが、どこか素朴な「滑稽さ」さえ感じられる話である。そしてこれを犬地城(=写真)の胤直の叔父胤重や老臣達を招いて話し、了解を取り付けて皆で書名血判した後帰城させた。しかし、彼らが犬地に戻った時には、既に胤直は入れ違いにほんのわずかの差で西軍加担を決めており、岐阜の秀信のもとへ人質を送った後だったのである。そして胤直一党は犬地から上ヶ根の砦へ移って立て籠もり、ここに同族「両遠藤家」が東西に分かれて戦うことになった。ちなみに胤直の妻は慶隆の娘である。 上ヶ根は「城ヶ根」とも書き、「じょうがね」と読むのだが、その位置がよく判らない。『白川町史』では白川町の東端切井集落から峠道を登った所、恵那市中野方町との境にある山(=写真)がそうではないかという説が紹介されており、これは内容的に見て説得力がある。しかし同町史ではさらに「昭和三十八年白川町誌編集が具体的に進み、各方面からその資料を収集したところ、上ヶ根は白川口の下金(しもがね)であるというような記録が所々にできていたことがわかった(後略)」とあり、要するに2つの地を紹介しているのだが、そのどちらであるかとは結論付けられていない。 そして、これらの何れにせよ、やや不都合が起きるのである。その理由を説明する前に、犬地城は小原城から東へ約3kmという近距離にあったことと、当時慶隆は小原において佐見川筋と白川筋の村々(現白川町の北半分一帯と南西部の一部)を、胤直は犬地において黒川筋と赤川筋の村々(現白川町の南東部一帯)をそれぞれ治めていたこと、また八幡城から白川口(下金)までの距離が約50km、切井集落南の峠までは約72kmあることを頭に入れて置いていただきたい。 まず、上ヶ根砦が白川口の下金にあったとする。ここは小原から西へ直線距離にして約1km強、飛騨川の対岸地点にある。ということは、上にも書いたが、胤直が犬地から上ヶ根に立て籠もるには、慶隆の領内しかも小原城の真下の道を西へ通過しなければならず、一族郎党を引き連れて籠城するのを慶隆がまったく知らなかったか、みすみす通してしまったというのは、両家がこれ以前にも度々小競り合いを起こしていたこともあって考えにくい。 次に、上ヶ根砦が切井集落南の峠にあったとする。ここは犬地からさらに東にあり、上記胤直の移動については問題はない。が、この後九月四日に慶隆は八幡城で和解に応じて軍を返し、翌五日に上ヶ根砦を囲んだと記録にあるのだが、八幡城から切井集落南の峠までは約72kmあり、加えて郡上八幡から和良へ抜けるには険しい峠越えがある。取材時にその道をバイクで走ってきたが、正に「峠越え」と呼ぶにふさわしい険路で、これを含めた72kmの道のりを一日で行軍するというのは、とても考えられないのである。 ということで、現時点では位置の特定は出来ないが、これについては町を通して地元の研究家の方へ諮っていただけるとのことなので、そのうちに何か進展があれば、ここに書き加えることにしたい。 話を戻す。東軍に属した慶隆は、長年の悲願であった郡上八幡回復(侵攻許可)を家康に求めたところ、家康は七月二十九日にこれを許可した。ただ、この時点で家康は胤直が西軍についたことを知らなかったため、許可は「両遠藤氏」に与えたものであった。慶隆はまず小原城(砦)がさほど堅固でなかったことから、佐見の吉田(現白川町上佐見)に砦を築いて移り、守兵を宮代の妙観寺や坂本に置いて胤直方との小競り合いが開始された。八月一日、胤直のもとに岐阜の秀信から激励状と鉄炮三十挺および弾薬が届けられたため慶隆方はやや苦しくなるが、八月二十日、再度家康から改めて郡上郡奪取を許可され、同時に慶隆を励ます書状が届いた。 慶隆は、ここで両面作戦に出た。胤直の押さえの兵を残し、自身は一転して郡上八幡城へと進撃していったのである。この詳細は別稿「八幡城の戦い」で述べるが、結論を先に言うと慶隆は郡上八幡回復に成功、勇躍して再び兵を帰し九月五日に上ヶ根砦を包囲、攻撃を加えた。 軽戦数刻、慶隆は遠藤作左衛門を軍使として城(砦)内に派遣、この時点で既に岐阜城も落ち犬山城も開城していることを報せ、降伏を呼びかけた。胤直は素直にこれを受け入れ、慶隆のもとへ人質を送って降伏、ここに同族争いは終わりを告げた。戦後、胤直と同じく遠藤慶隆の女婿である金森可重から家康へ胤直の赦免が願い出されたが、家康はこれを許さず、犬地五千五百石は没収された。胤直は所領を失って浪々の身となり、四年後に京都で歿したという。 (※協力&一部資料提供:白川町教育委員会) |