米野の戦い
〜織田秀信の関ヶ原1〜

岐阜城主・織田秀信は攻め寄せる東軍に城を出て戦う方針を採り、重臣百々綱家(安信)と木造具康を木曽川右岸の米野・中屋に配して東軍に立ち向かいます。しかし彼らの奮戦も及ばず、結局秀信は岐阜城へと退却します。


三法師秀信

 岐阜城主織田秀信、当時二十一歳。幼名を三法師という。彼は本能寺の変の際に父織田信長とともに自刃した信忠の嫡子で、信長の嫡孫である。後のいわゆる清洲会議において秀吉に推され、織田家の当主となった。しかし時流はもはや織田家には戻らず、岐阜十三万五千石を領する秀吉麾下の一大名として存在していた。
 この頃美濃では東西いずれに加担するかで迷っている者が多く、その中心的存在ともいえる秀信の去就を見守っていたと言って良いであろう。石田三成は秀信に姪の川瀬左馬助という者を派遣し、戦後は美濃・尾張二国の主とするという条件で加担を要請した。秀信の重臣木造具康らは東軍加担を勧めたが、結局秀信は寵臣入江右近らの言を容れて西方につくことになり、これが美濃国内諸将の情勢に大きく影響を及ぼした。


美濃国内の動向

 秀信が西軍方についたことにより、美濃周辺の諸城主の動向は以下のようになった。

居城城主または守将石高所属所在地
岐阜城 織田中納言秀信 135,000 西 岐阜市稲葉山
大垣城 伊東彦兵衛盛宗 34,000 西 大垣市郭町
曾根城 西尾豊後守光教 20,000 大垣市曾根町
池尻城 飯沼十郎左衛門長実 9,000 西 大垣市池尻町
長松城 武光式部少輔忠棟 5,000 西 大垣市長松町
加賀野井城 加賀野井弥八郎秀望 10,000 西 羽島市加賀野井
竹鼻城 杉浦五左衛門秀勝 8,000 西 羽島市竹鼻
鉈尾山城 佐藤才次郎方政 25,000 西 美濃市曽代
福束城 丸毛三郎兵衛兼利 20,000 西 安八郡輪之内町
西保城 木村惣左衛門重則(勝正) 10,000 西 安八郡神戸町
黒野城 加藤右衛門尉貞泰 40,000 西 揖斐郡大野町
清水城 稲葉甲斐守通孝 5,000 西 揖斐郡揖斐川町
田畑城 井上小左衛門定利 760 西 揖斐郡池田町
本郷城 国枝修理亮政森 西 揖斐郡池田町
多羅(良)城 関長門守一政 30,000 西 養老郡上石津町
松ノ木城 徳永法印寿昌 31,000 海津市海津町
高須城 高木十郎左衛門盛兼 10,000 西 海津市海津町
今尾城 市橋下総守長勝 10,000 海津市平田町
太田城 原隠岐守勝胤 30,000 西 海津市南濃町
駒野城 高木九郎兵衛帯刀 5,000 西 海津市南濃町
津屋城 高木八郎右衛門正家 3,000 西 海津市南濃町
垂井城 平塚因幡守為広 12,000 西 不破郡垂井町
岩手城 竹中丹後守重門 5,000 西 不破郡垂井町
小原城 遠藤左馬助慶隆 7,500 加茂郡白川町
犬地城 遠藤小八郎胤直 5,500 西 加茂郡白川町
和知城 稲葉右近大夫方通 4,450 西 加茂郡八百津町
大洞城 稲葉彦六侍従典道 西 関市大洞
岩村城 田丸中務大輔直昌 40,000 西 恵那市岩村町
八幡城 稲葉右京亮貞通 40,000 西 郡上市八幡町
中山城 稲葉修理亮通孝 5,150 西 郡上市八幡町
妻木城 妻木雅楽助家頼 8,000 土岐市妻木町
苗木城 川尻肥前守秀長(直次) 10,000 西 中津川市苗木
高山城 金森法印長近 38,000 高山市城山


米野の戦い

岐阜城から見た米野方向  秀信は石田三成からの援軍を加えて軍評定を開いた。席上、木造・百々らは籠城策を主張するが、秀信の意向により出陣と決まる。その作戦は、まず木曽川岸の第一陣・米野で渡河してくる敵を撃破、討ち漏らした敵は境川岸の第二陣で殲滅させる。それでもだめな時は大垣からの援軍を待って籠城し、挟撃により敵を討つというものである。そして八月二十一日までに次のような布陣を固めた。
 総勢九千の兵のうち、先鋒の米野村には百々綱家・飯沼小勘平長資・津田藤左衛門らの二千五百。少し東の中屋村には木造具康・具正の一千。米野と秀信本陣との間にある伏屋村には柏原彦左衛門・川瀬左馬之助の二千。さらに遊軍として、新加納村に佐藤方秀の一千を置いた。秀信は岐阜城に守備兵八百を残し、千七百の兵を率いて本陣を米野と岐阜城のほぼ中間、境川右岸の川手村閻魔(えんま)堂に据え、迎撃体勢をとった。
 写真は岐阜城天守閣から米野方向を望んだもので、クリックすると地名入りの拡大写真にリンクしてあるのでご参考までに。

 対する東軍は、二十一日夜までに米野の対岸、木曽川左岸の河田付近に集結した。この方面の将は池田輝政で、従う面々は浅野幸長・山内一豊・有馬豊氏・戸川達安らの一万八千である。輝政は木曽川下流から進撃する福島正則と呼応して、岐阜城の搦手筋から攻め込む段取りであった。

木曽川右岸の米野堤  八月二十二日払暁、東軍は一柳直盛・堀尾忠氏・伊木清兵衛(池田隊)らが先陣となって渡河を開始した。東軍が木曽川の中州(現岐阜県羽島郡笠松町・東海北陸道川島SA付近)に上陸するのを見た秀信勢は一斉射撃を開始、ここに戦いの火蓋が切って落とされた。東軍は激しく飛来する銃弾をものともせず次々と川を渡り、米野堤(=写真)へと上陸した。そこへ秀信勢の先鋒百々綱家が一計を案じて付近の草むらに隠して置いた伏兵が一斉に攻めかかり、大乱戦となる。秀信勢は小勢とは言え奮戦し必死に食い止めるが、数に勝る東軍はじりじりと押し、やがて全軍が美濃になだれ込んだ。
 もともと秀信勢は中屋村の木造隊を合わせても三千五百(新加納村の佐藤勢一千は戦線離脱)、東軍は一万八千。数の上では勝負にならないのだが、それでも秀信勢は健闘した。木造具康・百々綱家・津田藤左衛門・飯沼小勘平長資の奮闘にはさすがの東軍も手を焼き、一進一退を繰り返すほどであったという。しかしやはり兵数の差は如何ともしがたく、秀信勢は木造・百々を殿軍に、境川の第二陣へと退却を余儀なくされた。
 なお、現地平島(岐南町)には、奮戦の末池田勢に討たれた秀信方の勇士・飯沼小勘平長資の墓が現存しているが、この戦いにおける飯沼小勘平長資の活躍は別稿で触れることにする。

 少し話はそれるが、剛の者として知られた飯沼小勘平長資を討ち取ったのは一般に輝政の弟長吉とされているが、『常山紀談』によると森寺政(清)右衛門の弟四郎兵衛長勝が討ち取ったとしている。この書はいわゆる「俗書」ではあるが、著者湯浅常山元禎が池田家中の者であること、加えてその稿(「巻十二の十二 第二百七十八話 森寺四郎兵衛、飯沼小勘平を討つ事」)の終わりに

「飯沼が冑は小田原鉢、刀は行光の作、脇差は菊一文字なり。森寺が従者分捕して今森寺が許に有といへり。森寺が飯沼を討取し事、関ヶ原記、其余の書にも、池田備中守としてしるせるは謬なり」

 と強く否定していることから、結構これが真相に近いところなのかもしれない。また、戦後生き残った長資の弟長重を福島正則が拾い、飯沼勘平と名乗らせて扶持を与えており、長重は後に尾張義直に仕えて三千石を領したという。

 秀信は敗残兵をまとめ、踏みとどまって巻き返そうとした。再び激戦となったが、もはや勢いの差はどうしようもなく、秀信勢は敗れて岐阜城へと退却する。しかし新加納村の遊軍佐藤方秀は遂に岐阜城へは戻らず、自領の上有知(こうずち)に引き上げた上、城を放棄して行方不明となった。
 秀信勢を撃破した東軍は、深追いはせずにただちに勝報を家康に報せ、この日二十二日夜は岐阜城麓を流れる荒田川左岸一帯に宿営、夜襲に備えて夜を明かした。

 そして翌日、岐阜城への総攻撃が始まった。


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