杭瀬川の戦い
〜島左近の関ヶ原〜

いわゆる「決戦」前日の九月十四日、東軍の総帥・徳川家康が赤坂に着陣しました。石田三成の家老島左近は、一策を秘めて蒲生郷舎・明石全登らと東軍へ小戦を挑みます。


家康、赤坂へ着陣

大垣城から見た赤坂方向  左の写真は大垣城(現大垣市郭町)の天守閣から美濃赤坂方向を望んだものである。赤坂は大垣城の北西約一里(4km)の地にあり、九月十四日までに東軍諸将がすでに集結していた。
 さて家康はというと、八月二十八日に江戸にいた家康のもとに河渡川の戦いの捷報が届き、頃はよしと九月一日に出陣することが決まった。家康は弟の松平康元・五男の武田信吉らを江戸城の留守に残し、同日三万二千七百余の兵を率いて江戸を出陣した。家康本隊はこの後、神奈川・藤沢・小田原・三島・清見寺・島田・中泉・白須賀・岡崎・熱田と泊を重ね、十一日に清洲城に到着した。
 さらに十三日には岐阜城へ入り、その日の夜のうちに馬印・旗・幟と銃隊・使番などを密かに赤坂へ向かわせ、自身は翌十四日夜明け前に岐阜を出陣、稲葉貞通・加藤貞泰らの案内で長良川を越え、神戸・池尻を経て正午前に赤坂に着陣した。

岡山の家康本陣跡  この家康の赤坂本陣は当時岡山と呼ばれたが、関ヶ原合戦の後に勝利を記念して「勝山」と改称され、現在に至っている。場所はJR美濃赤坂駅の南西300m程のところにある小高い丘で、現在では頂上部分に「史蹟 関ヶ原合戦岡山本陣址」の碑が建っているのみ(=写真右)である。
 これにより、赤坂に勢揃いした東軍勢の陣所を家康の本陣から見てみると、以下の通りである。なお、各武将の陣所記述は『関原合戦図志』(神谷道一著 小林新兵衛発行)より引用した。

徳川家康:岡山(勝山)
筒井定次:大久保 赤坂町北ノ山下クボミタル畑地ノ中古墳ノ跡トモオボシキ少シ高キ所
藤堂高虎:東花ヶ丘 赤坂驛大久保ノ西、山尾ノ南ニ出デタル処ニアリテ中山道ノ北ニ当レリ
黒田長政:西花ヶ丘 中山道ノ北、東花ヶ丘ノ西、山尾ノ南ニ引キタル所
金森長近:西花ヶ丘の上 黒田ノ陣ノ後ロニアリ地形愈々高シ
加藤嘉明:天王山 中山道ノ北黒田ノ陣ノ西
細川忠興:昼飯村 中山道ノ北
福島正則:大塚 昼飯村ノ内中山道ノ南(中略)此地東南に勝山ヲ見ル其距離凡ソ二町
京極高知:蔀(しとみ)中山道ノ南ナル畑中ニ在リ小丘形ヲ成ス
本多忠勝:経塚 勝山西北ノ麓ニ在リ地形稍高シ
井伊直政:経塚(勝山中腹) (本多忠勝と)同稱ニシテ勝山ノ半腹
松平忠吉:若王寺ノ森 赤坂驛ノ南、勝山東北ノ麓
田中吉政:磯部ノ森 株瀬川ノ西、勝山ノ東
中村一栄:東牧野 株瀬川ノ西、勝山ノ東南、牧野村ニ在リ
有馬豊氏:東牧野 中村ガ陣所ノ右
池田輝政:荒尾 勝山ノ南、荒尾村ノ内
池田長吉:梅塚 荒尾村ノ南端
浅野幸長:西牧野 勝山西南ノ麓西牧野村
生駒一正:西牧野 同村西南ノ端ニアリテ長松村ニ通ズ道路ニ沿ヒ
山内一豊:西牧野 同村ノ西端ニ在リテ垂井ヘ出ヅル間道ニ沿ヒ
堀尾忠氏:西牧野 勝山ノ西ノ麓ニアリ是レ亦同村ノ内
一柳直盛:長松城 勝山ノ西南、長松村ニアリ


杭瀬川の戦い

 九月十四日正午頃、西軍の斥候が大垣城へ駆け戻ってきた。東軍の赤坂本陣のそこかしこに白旗が翻って俄に活気を呈し、幟の数なども一気に増えたので、家康が着陣したのではないかという報である。これを聞いた西軍方の兵は少なからず動揺し、浮き足だった様相を呈し始めた。そこで三成の家老島左近や蒲生郷舎らは「家康は上杉景勝と戦っているはずなので、こんなに早く着陣する事はあり得ない。白旗は金森法印(長近)のものである」と触れ、兵たちの動揺を鎮めようとした。しかし三成は宇喜多秀家・小西行長とはかり、改めて偵察をさせたところ、家康の持筒頭・渡辺半蔵の姿を認めたことから家康の着陣は事実であると報告されたので、兵たちは一層動揺の色を濃くしていった。
 左近はこれ以上動揺が広がるとまずいと考え、「もはやこの動揺を鎮めるには、まず一戦におよんでこちらの戦力を示す他ありますまい。敵を誘い出して攻め、状況を打診してみてもよいのでは」と三成に献策、了承を得た。そこで左近は蒲生郷舎とともに五百の兵を率いて大垣城を出陣、宇喜多秀家は明石全登・本多但馬らに八百の兵を与えて後陣に備えさせた。

杭瀬川  左近は一隊を笠木村付近の草むらに隠しておき、自身は池尻口から杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊の前で刈田をして敵を誘った。なお、中村隊は本来は駿河府中城主の式部少輔一氏が出陣するところだったが、七月十七日に病没したため、代わって弟の一栄が指揮をとり参陣していた。
 左の写真は杭瀬川の左近が渡ったのではないかと思われる場所(推定)で、対岸から少し行ったところに中村隊、その左手(南側)に有馬玄蕃頭豊氏隊が布陣していた。中央遠方に小高く見える丘が家康の本陣岡山(現勝山)である。

 さて、陣前で刈田をされた中村隊は面白かろう筈もなく、「人もなげな振る舞い」とばかりに柵から一人の兵が飛び出して左近方の三人の兵を撃ち殺した。これに応戦して左近方もこの中村兵を射殺すると、柵内から中村一栄の家老・野一色頼母(たのも)助義が薮内匠とともに出撃してきた。左近は暫く応戦し、頼母らの猛攻撃を支えきれずと見せて川を渡り退却する。むろん、計略である。そして頼母らは勢いに乗じて川を渡って追撃してきた。
 ここで伏兵が草むらから現れて中村勢の退路を断ち、さらに敗走と見せかけた兵も急に反転して挟撃、乱戦となった。そして野一色頼母は乱戦中に戦死してしまう。中村隊の苦戦を見た有馬豊氏は、急ぎ救援に向かうべく柵を越えて出陣、迎え撃った左近・蒲生勢と激戦を展開した。乱戦の中、有馬隊の稲次右近は蒲生郷舎の士横山監物を討ち取るなど力戦するが、そのとき迂回してきた明石全登隊から集中射撃を浴びせられ、これまた苦戦に陥ってしまう。この一部始終を岡山から望見していた家康は、優勢だった初めのうち(左近の計略だが)は褒め称えるなど上機嫌であったが、左近の計略に見事にはめられたことを知ると機嫌を損じ、「大事の前に、かかる小戦をなし、兵を損じるとは何事ぞ」と怒り、井伊直政・本多忠勝に命じて兵を撤収させた。

かぶと塚  中村勢の指揮官で家老職を務める野一色頼母助義は近江野一色村の出身で、中村家中で八千石を領していた人物である。この日の出で立ちは「金の三幣の指物に馬印は鳥毛の二ツ団子」という颯爽たるものであったという。しかし、頼母は乱戦の中、深田に足を取られたところを宇喜多家中の浅賀三左衛門(浅香左馬助)に組みつかれ、ついに討ち取られた。後れて追いついた家臣の奮闘によってその首は敵(左近方)に渡さずに済み、赤坂の西麓に葬られたという(注@)。写真は彼の鎧兜が埋められたと伝えられる通称「かぶと塚」で、大垣市赤坂西町の旧中山道沿いのJR昼飯貨物線踏切東側にあり、御覧のように立派な碑が建てられている。
【注@】一説に、石田方海北市右衛門の鉄砲に撃たれ落命したともいう。

 目的を果たした左近は、強いて深追いはせずに軍を撤収させた。殿軍は三成の士・林半助と宇喜多の士・稲葉助之允が見事に務め、これを見ていた家康は「敵ながら天晴れ見事な働きぶり」と称賛したという。これが小戦ながら西軍の唯一の勝ち戦となった「杭瀬川の戦い」である。三成は牛屋村遮那院の門前(現大垣市本町・近年まで「首実検橋」があったという)にて挙げた敵の首実験を行い、一時的ではあったが、西軍は大いに士気を高めた。古記録にこうある。

「大垣方よき首三十二取り、また雑兵首は石田の手へ八十四、浮田の手へ六十四取りたり、これを杭瀬川の戦という云々」


INDEX NEXT(大垣城の戦い)