「飯沼勘平」を称した人物
織田秀信家臣で「岐阜四天王」と呼ばれた勇士の一人ともされる飯沼長資は、十郎左衛門長実の子で勘平と称した。しかし彼の父長実も勘平とも称していたこともあり、実際には長資は小勘平と呼ばれていたようである。戦国期の飯沼家では「勘平」を称した人物は『美濃明細記』所収の系図上で五人見られ、この稿の主人公長資から見ると、曾祖父長就・祖父長継・父長実・弟長重がそれぞれ勘平を称している。
曾祖父長就は対馬守を称し、初め土岐頼芸に仕えて美濃池尻城で三千貫を領し、後に斎藤秀龍(道三)に属した。祖父長継は織田信長のち羽柴秀吉に仕え池尻城主を務めていたが、天正十一年の賤ヶ岳の戦いの際に織田信孝方への内通を疑われ、氏家内膳によって大垣城で謀殺された。その際に池尻城も没収されたため、父長実は前田利家のもとに赴くが、金沢で人を殺めて致仕し、京都で秀吉に拝謁、後に織田秀信に仕えた。
長実は秀信のもとでは騎馬隊長を務め、大番頭として九千石を給された。朝鮮役では渡海して三年在陣し、数々の戦功を挙げたと伝えられる。また弟長重は関ヶ原の後に福島正則に仕え、さらに尾張徳川義直の下で三千石の旗本になっている。
長資は織田秀信の麾下で当時八百石を給されており、母は竹中伊豆守の娘である。彼は後に秀信麾下の勇士として広く世に知られることになるが、それは何と言っても米野の戦いにおける一柳家の家老大塚権太夫との一騎討ちが有名であろう。以下に簡単ながらその模様をご紹介する。
なお、左の写真は長資と権太夫の一騎討ちが行われた米野(現岐阜県羽島郡笠松町)の現在の風景で、木曽川右岸の堤防から撮影したものである。写真中の左寄り遠方に見える山が岐阜城のある金華山で、ここから直線距離にして約一里半強ある。
長資 vs 権太夫
「米野の戦い」の稿でも述べた通り、八月二十二日、東軍池田勢と長資らの秀信勢は米野一帯で大激戦を演じた。この日の長資の出で立ちは緋威しの鎧に赤母衣を背負い、白葦毛の馬に乗っていたという。対する大塚権太夫は尾張黒田城主一柳監物直盛の家老で、大剛の者として知られており、この戦いにおいても一番槍の手柄を立てている猛者である。
権太夫はこの日米野堤下で秀信の家臣武市善兵衛と戦い、まさにその首を取ろうとしていた。そこへ善兵衛の弟忠左衛門が駆けつけて兄を助けようとするが、力量には相当差があったようで、権太夫は刀で一撃のもとに忠左衛門の喉を切断し、まず弟の方を先に討ち取った。続いて善兵衛の首をも取り、その首を引っ提げて堤の上へ上がろうとしたところ、颯爽と白葦毛の馬に跨って駆けつけてきた岐阜方の凛々しき若武者がいた。これが飯沼小勘平長資である。
「その首を返せっ」
長資は叫びざま馬を飛び降り、槍をもって権太夫に向かっていった。両雄相戦うことしばし、権太夫はそれまでの戦いで疲れていたこともあり、ついに長資の槍に刺されて討ち取られた。長資は従者の坪井七兵衛という者にこの首を渡し、川手村閻魔堂に本陣を構える秀信のもとへ届けさせた。写真は笠松町無動寺地内に現在も残る、大塚権太夫の墓である。この墓は畑の真ん中に目立たずひっそりと建っているため、探すのにはずいぶん苦労したものである。画像クリックで近接撮影画像にリンクしてあるのでご参考までに。
長資の最期
さて長資は再び馬に乗ろうとしたが、馬が興奮したのか飛び跳ねて乗れなかったため、徒歩にて進んでいった。と、突き進む長資の前に、この方面の東軍総指揮官・池田輝政の弟長吉がいた。
相手は総大将輝政の弟、長資にとって不足はない。彼は長吉にこう呼ばわって勝負を求めた。
「我は岐阜の士・飯沼小勘平である。ここで雌雄を決しようではないか」
呼びかけを聞いた長吉の従士・伊藤与兵衛はあわててこれを遮り、自ら長資に立ち向かおうとした。しかし長吉は叱りつけてこれを止め、自らも名乗りを上げて長資の挑戦を受けたのである。
やはり疲れていたものか、長資は遂に長吉に突き伏せられ、討ち取られてしまった。長吉は与兵衛に長資の首を取らせたという。これが有名な飯沼勘平の活躍とその最期の場面であるが、これには異説があり、長資を討ち取ったのは池田の士・森寺長勝とするものもある。真実の詮索はさておき、いずれにせよ長資はここで戦死した。右の写真は岐南町平島(へいじま)に現存している長資の墓で、クリックで脇に建つ説明板画像にリンクしてある。
飯沼小勘平長資、慶長五年八月二十二日、奮戦虚しく二十一歳の若さで米野に散る。法名は「隆宗院殿浄誉清頓居士」。
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