筒井家から石田家へ

左近は「筒井の左近右近」と呼ばれる勇将としてその名を轟かせますが、定次の代になって彼は主家を去り、やがて石田三成に高禄で迎えられます。


筒井家を去る

 左近は筒井氏の勇将として、宿敵松永久秀勢との戦いに奮闘した。やがて天正五(1577)年十月にはその久秀も滅び、同六年には信長から山中鹿介の拠る播磨上月城への援軍として派遣された筒井勢の中に彼の名が見える。信長から秀吉の時代へと移った同十一(1583)年五月、左近は筒井順慶に従って秀吉の滝川一益攻めに出陣するが、このときは敵の夜襲を受け負傷している。程なく順慶が歿し(天正十二年八月十一日歿)、左近は葬儀の際に幡を持って参列した。そして、主君は定次に代わり、筒井家は後に伊賀に移る。
 天正十三(1585)年三月の秀吉の紀州征伐時における筒井定次勢の中に彼の名があり、『根来焼討太田責細記』にその際の彼の活躍が見られるので記しておく。

(前略) 的一坊ハ敵ヲ打事数多ニシテ筒井ガ臣井田五郎・小泉四郎ト戦ヒケル、是ヲ見テ筒井隼人先祖ノ武功ヲ顕サント大ニ下知シ、真壁与十郎・宇田切三郎・飯田祐右ヱ衛門・楢原右助・松倉右近・森縫殿ヲ従ヱ的一坊ニ切テ掛リ半刻斗戦ヒシニ、嶋左近、的一坊ガ手ヲトラヱ鉄棒引タクリケレバ、爰ニ於テ筒井ノ勇士手取足取引倒シ、終首掻切タリケル」

 ただ、一説にこの時活躍したのは彼の子新吉信勝とするものもあり、加えて竹中重門の『豊鑑』に「寺々はみな明けうせ、僧俄に落行たりと覚えて、器以下取りちらして置けり。兵ども寺々に入りみちて是を取りしたためなどす」とあるように、秀吉の根来焼き討ち自体がさほど伝えられているような激戦でなかったとする見方もあることを付記させていただく。

 『増補筒井家記』によると、左近は天正十六年に筒井氏を去り、大和興福寺の持寶院に寓居したとされ、『多聞院日記』では同十八年五月十七日条に
「北庵法印明日亀山ヘ為見廻越トテ、箱二ツ預ケラレ了、嶋左近ノ内法印ノ娘一段孝行、左近陣立ルスノ間越了」
 と見える。北庵法印とは左近の妻「おちゃちゃ」の父で、興福寺に所属する医師である。この記述の解釈として、従来の説では「北庵が娘(左近の妻)を見舞うため亀山(伊勢か)に来たが左近は出陣中で留守だった」とされているようなのだが、これについては後の稿で新解釈を提言するので、そちらで詳しく述べさせていただくことにする。なお、当時の伊勢亀山は蒲生氏郷の与力関一政の領地で、時期的に「陣立」(出陣)とは秀吉の小田原攻めを指し、左近は関一政とともに蒲生勢の一員として参陣(氏郷は二月七日伊勢松阪を出陣)したと見る向きもある。ただ、小田原城北の久野口(宮窪)に布陣した蒲生・関は、五月三日に太田氏房家臣広沢重信の夜襲を撃退した記録があるが、左近の名はそこにはない。また、丹波にも「亀山」(現亀岡)があり、当時前田玄以の領地であったことを付記しておく。


左近、石田家へ

龍潭寺(彦根市)の三成像  石田三成が左近を召し抱えた時期も天正末期説や文禄四年説などがあり、はっきりとは判っていないようだ。同日記には左近が朝鮮の役に出陣したと思わせる記述があるが、文禄二年閏九月九日の条に「嶋左近昨日八日佐和山ヘ西陣ヨリ帰了」とあり、「佐和山」の文字があることから、この時点で既に三成の家臣(または与力)になっていたものと見られる。ということは、朝鮮役にも既に石田家の一員として加わっていたはずである。一説に大和大納言秀長・その子秀保に仕え、秀保が文禄三(1594)年四月に歿して再び浪人したとき三成に召し抱えられたともいうが、その間の左近の事績は不明で、今回の取材ではその形跡は認められなかった。この点についても改めて後に詳しく述べることにしたい。
 写真は佐和山の麓に位置する龍潭寺(彦根市古沢町)にある三成の像で、同寺の並びには石田家における左近の居館跡と伝えられる清涼寺(井伊家菩提寺・写真下左)がある。

清涼寺(彦根市)  ともあれ、三成が高禄をもって彼を召し抱えたことは事実で、ここから彼は再び歴史の表舞台に登場する。一説に三成がまだ近江水口四万石の主であったとき、一万五千石とも二万石ともいう破格の条件で左近を召し抱え、後に佐和山十九万石余となったときに禄高を増やそうとしたら、左近は「このままで結構でございます」と断ったという。周囲の人は「この主君にしてこの家臣あり」と、皆感じ入ったと伝えられている。
 三成の「水口四万石」については時期的に問題があるのだが、敢えてここでは触れないことにする。この一万五千石云々という数字について私なりに考えてみたが、これは「三成の所領の半分」というよりも、左近全盛時の所領を考慮したものではないだろうか。『姓氏家系大辞典』(太田亮著 角川書店)の島氏の項に「島左近友保、その子左近友之は、共に筒井氏に属し、松倉、森の二氏と三老の稱あり。一萬石を領し、柳本戒重、櫻井、生駒、萩原等、合せて五千石の麾下ありしと云ふ」とあり、所領は一万石だがそれに加えて五千石分相当の麾下を併せ持っていた。つまり筒井家では一万五千石格の武将だったのである。三成は最低限左近最盛時の俸禄を「値切る」形では召し抱えたくなかった。左近という大物を抱えるにはそれなりの待遇が必要で、仮に三成の所領が二万石ほどだったとしても、やはり一万五千石を出したのではないかと思うのである。
 当然の事ながら三成は左近を重用し、左近も忠実にそれに応えた。石田家の筆頭家老職を務め、佐和山城下の松原内湖に百間橋を架けるなど、三成の治世にも貢献している。また軍事面では総司令官たる地位にあったと言っても良いであろう。まさに三成の懐刀であり片腕たる存在であった。そして慶長五年、いよいよ「関ヶ原」を迎える。


TOP  NEXT