左近の終焉

精一杯健闘した三成勢もついに敗走する時を迎えます。午前中の戦いで被弾負傷していた左近は、無謀を承知で敵の大軍に突っ込みます。


笹尾山下に拡がる決戦地一帯
左近が戦死したと思われる、笹尾山下に拡がる決戦地一帯

左近の終焉

 やがて、遂に石田隊も東軍の猛攻を支えきれずに四散、主将三成の戦場離脱となる未の刻を迎える。そして、左近は・・・。
 彼は最後の力を振り絞って敵陣に突入し、ここでついに戦死した。上の写真は笹尾山下に拡がる決戦地一帯で、遠方中ほどに小さく見える白い幟が決戦地碑の建つ位置である。おそらく左近の戦死した場所はこのあたりではなかったかと思うが、それを記した書は見あたらない。
 先の脱出説を否定するわけではないが、私はやはり彼は関ヶ原に散ったと思いたい。いや、華々しく散らせてやりたいと思うのである。ただ、その場合、彼の首は家康の実検には供されていないから、屍は雑兵達のものと混じって戦場にうち捨てられたままということになるが、これは左近ほどの名将の最期としては実に忍びない。しかし、これがそもそも合戦というものの本来の姿なのだろう。ひょっとすると、今なお西首塚あたりに、左近の遺骨が人知れず紛れこんでいる可能性も大いに考えられるのである。

 後に興福寺持宝院の主が語った話によると、西軍の敗勢が濃くなった頃、三成家臣の八条勘兵衛という者が、左近に佐和山城へ入って城の守備をしてはどうかと勧めたところ、左近は彼に、我が子掃部や修理(注1)の消息をただした。そして勘兵衛から二人の息子の戦死を聞かされると、左近は「それならば、もう何を楽しみにして生きられようか」との言葉を残し、そのまま敵陣に突っ込んでいったという。彼の心情は察するに余りある。
 事の真偽はいざ知らず、私はこれで良いと思う。きっと、その時の彼は、「鬼左近」と呼ばれた以上のすさまじい形相をしていたことであろう。苦痛に耐え、傷ついた身を引きずって兵を指揮し、自らも力尽きるまで槍を揮い、あるいは刀を払って東軍兵を薙ぎ倒し続けたと思いたい。しかし怒濤となって次々と押し寄せる東軍兵の中に、やがて彼の姿は消えていった。

 まさに玉砕。無謀を承知の上で雲霞の如き敵の大軍の中へ突撃していった彼の脳裏には、いったい何が映っていたのだろうか。
(※協力&一部資料提供:平群町教育委員会)

【注1】『奈良県史11 大和武士』所収の『和州国民郷士記』に、「○平群郡 馬乗七十三人 雑兵七百二十人 嶋左近亟 嶋掃部介慶長五年子九月十五日関ヶ原陣ニ立テ打死ス 嶋修理介知行一万石秀頼卿ヨリ 同持宝院陵尊房一万石石田三成ヨリ」とある。



島左近
このイラストは、講談社学習コミック・アトムポケット人物館「野口英世」「織田信長」「盛田昭夫」等を執筆されている漫画家・中島健志先生のご厚意により、特にこの稿に寄せて描き下ろしていただいたものです。先生にはこの場を借りて深く御礼申し上げます。


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