甥の豊久と家老の阿多盛淳の一身を抛った必死の防戦で、義弘は危地を脱します。そして島津勢は上石津から多賀へと抜け、堺から海路薩摩へと向かいます。 |
義弘、一路住吉へ 豊久に続いて阿多盛淳も失ったが、島津勢は牧田村で二手に分かれて敗走した。義弘の本隊は牧田川沿いに表伊勢街道を駒野(南濃町)方向へと走り、ここへ長束正家は数名の家臣を送って誘導させ、駒野の峠村まで案内したという。そしてここから駒野越えを行って二ノ瀬(現三重県員弁郡北勢町二之瀬)へ抜け、さらに北上して時村(現岐阜県養老郡上石津町堂之上一帯)に至る。 もう一隊は殿隊で、これは東軍を引き付ける役割があったと思われ、牧田村から本隊と別れ、裏伊勢街道を南下していった。やがて井伊直政の負傷により東軍の追撃が中止されると、そのまま時村まで下って義弘本隊と合流したのだが、これが翌九月十六日のことであった。 義弘はこの付近で織田信秀の旧家臣で甲賀武士の小林新六郎という者を道案内に登用、彼を先導役として時山越えから近江五僧・保月(ほうづき)の難路を経由して多賀そして高宮河原へと抜け、高宮から甲賀谷に入り水口・三代寺を経て信楽(しがらき・現滋賀県甲賀郡信楽町)にたどりついた。関ヶ原脱出時には五百余名いた島津勢は数十名ほどに討ち減らされていたが、近江高宮郷では農民たちから一頭の牛をもらい受け、礼として引き替えに鉄炮を授けたというから、よほど食糧に窮していたのであろう。この時点での島津勢は、迫り来る追っ手ではなく、想像を絶する飢えと疲労と戦っていたのである。 写真は時村から西へ入った時山付近の様子で、正面が滋賀県方向(西)である。取材時にここをバイクで走ったのだが、道はやがて舗装路でなくなり、おまけに途中でふさがっていて滋賀県側へ抜けることは出来なかった。 信楽では村人等が集まって道をふさいでいたが、義弘の家臣がこれと戦い、五人を討ち取って二人を捕虜とした。一行は伊賀上野の城下に至ってこれらの首級を曝し、捕虜は柵に縛りつけた後大和方面へ向かい、ようやく河内から住吉に出て敗残兵を集めたという。この際の逸話として以下の話が伝えられているのでご紹介する。なお、ここまで道案内として働いた先述の小林新六郎に対しては、住吉で定紋入りの鉄炮と感状を与えたという。 義弘は近江甲賀に入る際に一人の老翁を道案内として雇い、伊賀に出て筒井定次の居城上野城へと向かい、留守を守る筒井家の士に使者を派遣し、「島津義弘只今城下を通行いたす」と告げさせて堂々と大和へ進んだという。やがて奈良へ出た際に先の老翁には当座の礼として刀に添えられていた赤銅の笄(こうがい)を与え、「これを持って後に必ず薩摩に来られよ。この度の労に対して礼をさせて頂こうぞ」と声を掛けて別れた。無事に大坂に着いた義弘は薩摩帰国の便を計らって貰おうと考え、存じ寄りで長年薩摩の米を商っている、ある大坂商人のもとへ家臣を派遣した。 さて家臣が行ってみたところ、その商人は待ちわびた体で「殿様はどうなさっておられますか」と聞いた。「それが、討死されたのじゃ」と家臣が告げると商人は涙を流し、 「日頃お世話になっていたので、関ヶ原で敗れなさったと承ったときから、必ずやここへお立ち寄り下さると思っておりました。そこできっとお役に立てようと船を用意してお待ち申しておりましたのに、口惜しゅう存じます。せめてものご恩返しに冥土へお供して・・・」 と、商人は本当に水中に飛び込もうとしたので家臣はあわてて彼を押し止め、真実を告げた。「事が事だけに人心は推し量り難く偽りを述べたが、殿は敵中を突破してこちらに来られておわす」 商人は言う。「このように疑われたのは心外ながら、それを言うのも時間の無駄というもの。ささ早く船にお乗せなされませ」 言い終わらないうちに当の義弘が現れたので、彼は船に酒樽を積んでその間に義弘を隠し、自らも付き添って薩摩へと向かったという。 これは後のことだが、奈良で義弘から赤銅の笄を与えられた先の老翁は、薩摩へ行こうと思いはするがあまりにも遠く行きそびれていた。そのうちたまたま人に誘われて鹿児島へ行くことがあり、義弘のもとへ立ち寄って例の笄を出したところ、「何故もっと早く来なかったのか」と言われながらも大歓迎され、黄金五百枚を与えられた上に人を添えて送り届けられたという。(『常山紀談』) 海路薩摩へ 義弘はここから大坂城の毛利輝元に使者を派遣、もし輝元が東軍と戦うのなら入城する旨を伝えるが、輝元の返答は煮え切らない。彼を見限った義弘は家臣に命じて人質として留め置かれている妻子らを連れ出させ、自身は堺から船に乗り西宮で妻子と無事合流、瀬戸内海経由で海路薩摩を目指した。 播磨灘を過ぎる頃には家臣たちも三々五々と集まって船団も増え、一路領国へと急ぐ。このとき豊後水道付近で船団から外れた数艘の船が黒田如水の指揮する哨戒船に遭遇、小戦闘となり家臣らが討死にするというハプニングが起きたが、義弘等は無事に日向細島へと到着した。これが九月二十九日のことである。 義弘はその足でただちに佐土原城へと向かい、豊久の母(義弘の弟・故家久夫人)と妻に豊久の戦死を告げる。自分の身代わりとなって散ったのだから、豊久の母や妻の悲嘆もさることながら、義弘もさぞ辛かったに違いない。そして十月三日、義弘は大隅富隈城にいる兄の龍伯(義久)を訪ねた。そしてここから役者が龍伯にバトンタッチする。さすがに「島津に暗君無し」と言われる通り、この兄弟は軍政両面に非常に卓越した能力を持っており、ここからは龍伯一流の外交を駆使してついに島津家を無傷で存続させることに成功するのである。 慶長七(1602)年四月十一日、家康は島津龍伯義久の本領を安堵、忠恒(のち家久)の相続を認め、併せて義弘の赦免を誓約した。 |