田辺城の戦い
〜細川幽斎の関ヶ原〜

大坂で蜂起した西軍は、伏見城攻めと並行して細川氏の居城・丹後田辺城(京都府舞鶴市南田辺)にも兵を差し向けます。幽斎は忠興が出陣中で兵力の乏しい田辺城に籠もり、西軍を迎え撃ちます。


細川ガラシャの死

細川ガラシャ像  細川忠興の妻ガラシャ、名は玉子(玉とも)。明智光秀の二女(または三女)で、非常に美しい女性であったと伝えられる。天正六(1578)年に織田信長の媒酌により忠興と結婚するが、同十年に父光秀が本能寺の変を引き起こし、細川氏はその加担要請を断ったため、忠興から丹後味土野(三戸野とも・現京都府竹野郡弥栄町)に幽閉された。同十二年に復縁して丹後から大坂玉造の新邸に移り、のちキリスト教に帰依。同十五年、公卿清原頼賢の娘で彼女の侍女として仕えていた清原マリアの手によって洗礼を受け、ガラシャと称した女性である。写真は大阪市中央区の聖マリア大聖堂にあるガラシャの像で、この左手にはキリシタン大名で有名な高山右近像も建てられている。

 さて、「関ヶ原」に際して、三成らは家康に従って出陣した諸将の妻子を大坂城へ監禁し、西軍方に対する戦意を削ごうとした。当然、玉造のガラシャの元へも七月九日に入城要請が来たが、夫忠興から「どのようなことがあっても屋敷の外に出てはいけない。三成の人質として大坂城に入ることのないよう留意せよ」と言い渡されていることもあって、彼女は敢然と拒否した。このため三成らは七月十七日、兵五百を差し向けて力ずくで彼女を拉致しようとしたのだが、これが裏目に出た。

越中井  当時細川邸には家臣の小笠原少斎秀清と河喜多石見・稲富伊賀が留守を守っていたが、やがてこれらの警固兵達と激しい戦闘が起き、逃れられないと覚悟したガラシャは屋敷に火を放たせ、「大坂方に矢を放ってはならぬ」と兵たちを戒めた上で自らの命を絶った。その際にキリスト教が自殺を禁じていることから、彼女は最後の祈りをイエス・キリストに捧げた後、家臣の小笠原少斎に命じて長刀で胸を刺させたという。少斎は彼女の遺体に練り絹の打ち掛けをかぶせ、火薬を撒いて火を付け(一説に火を放ったのは河喜多とも)、自らも燃えさかる炎の中で自刃した。河喜多石見も自刃したが、稲富伊賀はガラシャの死を見て裏門から逃れ、そのまま行方不明となった。
 この写真は上のガラシャ像から程近い場所にある「越中井」跡で、ここは玉造細川邸の台所跡と伝えられている。通りを隔てた向かいには「越中公園」がある。
 のちに忠興が稲富の行動を憎み、捜し出して首を刎ねようとしたが、その鉄炮の腕を惜しんだ松平忠吉が彼を召し抱え、稲富は後に尾張義直に仕えて幕府鉄炮方を務めたという。すなわち、元一色家臣で稲富流砲術の祖として知られる鉄炮の名人・稲富一夢斎祐直とは、この稲富伊賀のことである。

 さて、まさかこのような事態になるとは夢にも予想していなかった三成らはこの結末に驚き、「人質作戦」は尻すぼみとなり、監視を強化するのみに止まった。かなり穿った見方ではあるが、彼女の死により妻子を大坂に残して出陣中の諸将の心的負担が軽減されたとも言え、その意味では家康が関ヶ原で勝利を収めた遠因の一つとも言って良いかと思われる。

ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ

 38歳で昇天した薄倖の美女・ガラシャの辞世という。ちなみに、夫忠興が彼女の死を知らされたのは、清洲へと行軍中の八月三日、伊豆三島においてであった。


田辺城の戦い

田辺城  三成らはこれと前後して、細川忠興の居城・丹後田辺城(=写真)へ兵を差し向けた。留守を守るは忠興の父、幽斎である。彼は十七日まで宮津城にいたが、日頃から親しかった三刀谷四兵衛孝和が偽って大坂方の先手となり、一族百三十人を率いて田辺城下の幽斎家臣・佐方吉左衛門元昌宅に入ったことを知らされると、すぐに早舟を仕立てて田辺城に戻った。ここで大坂からの飛脚によってガラシャ夫人の奇禍を知らされた幽斎は非常に残念に思い、熟考の後に国中の武具や弾薬を田辺城へと集めさせた。さらに宮津・峰山の城にいる忠興の娘・妾と興元の妻らを急ぎ呼び寄せ、少し離れた久美城にいる幽斎の娘(松井佐渡守妻)には山中に隠れるよう指示する。そして三男の幸隆とともに城の備えを固め、市街を焼き払って大坂方と対峙した。

 三刀谷孝和は毛利氏に仕えた出雲の土豪三刀谷(屋)久扶の子で、父久扶が毛利輝元に疑われて出雲から追放されたとき、まだ幼かった彼は安国寺恵瓊の元で育てられ、成人後は毛利氏に従って朝鮮役で活躍した。しかし本領が安堵されなかったため同家を去り京都洛外吉田山に隠棲、その神官吉田氏を通じて縁戚である幽斎と交際が始まったという人物である。彼は安国寺恵瓊から旧主に復帰して丹後攻めの先鋒を務めるよう勧められ、大坂方が丹後攻略を意図していることを知る。しかし彼は幽斎との交誼を重んじ、加えて亡父久扶が家康に味方するよう遺言したこともあり、幽斎に殉ずる決心をした。そして一族郎等二十人を率い、田辺入城の道を選んだのである。関ヶ原の「義将」といえば大谷吉継や平塚為広が有名だが、スケールこそ小さいが、丹後田辺にもこういう人物がいた。

 対する攻撃陣の主将格は、福知山城主・小野木重勝である。当時丹後地方には一色家の残党がまだ数多く残っており、細川氏の麾下には属していたものの心から服してはおらず、あわよくばと考えている者も多かった。重勝は彼らが加担する旨を聞くや大いに喜び、首尾良く勝利の暁には一色の家系を取り立てることを約し、彼らをその麾下に組み入れた。

 七月二十日に重勝らは丹後国へ乱入、翌日には城近くの山々に布陣して三方から城を包囲して銃撃戦が開始された。その面々は重勝をはじめ藤掛永勝・赤松(斎村)広秀・谷衛友・川勝秀氏・小出吉政ら近郷の士を中心に、豊後の四将(竹中重利・中川秀成・早川長敏・毛利高政)を加えた一万五千の大軍である。城兵はわずかに五百、しかもこれは桂林寺・瑞光寺といった寺の和尚や弟子をはじめ、農民町人に至るまで寄り集まった人数である。はなから勝負にならない小勢ではあるが、幽斎方は一致団結して善戦する。というのも、攻囲軍は今ひとつ戦意に欠ける面があったようだ。
 教養人として知られる幽斎にはたくさんの弟子がいたが、攻囲軍の面々にも幽斎を師とする者が少なくなかったといい、一説に西軍方は空鉄炮にて形ばかりの戦をしたとも言われている。とは言え、何と言っても一万五千の大軍、いずれ城は落ちる。幽斎は、自分の死はともかく過去に三条西実枝から伝授を受けた古今和歌集が焼失することを惜しみ、これを八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)に献上することを申し出た。これを聞いて驚いた親王は、七月二十七日に侍臣大石甚助を田辺城へ派遣して開城勧告をするが、幽斎はこれを拒否した。そして二十九日には親王に使者を通じて古今伝授を行い、併せて『源氏物語抄』を、また禁裏へは『二十一代集』を、烏丸大納言光広には『草(双)紙十二帳』を、前田玄以には『六家集十八帳』をそれぞれ使者に託して送り届けた。このときに添えられた短冊に書かれたのが、以下にある有名な歌である。

古へも今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉

 ここで後陽成天皇が動いた。すなわち勅使として権大納言烏丸光広・前大納言中院通勝らを前田茂勝(玄以の養子)とともに下向させ(使者の人選は異説あり)、まず重勝らに「もし幽斎がここで落命するようなことがあれば、古今集の秘伝は永久に絶えるであろう。すみやかに城の囲みを解くように」との勅命を伝えた。重勝らはこれを奉じて囲みを緩め、勅使は城内に入って幽斎をも説得する。ここに至って幽斎も勅命を畏み、ついに城を明け渡すことを決意した。これが九月十二日(日時は異説あり)のことである。やがて攻囲軍の囲みは解かれ、一旦京都に復命しに戻った前田茂勝は再び田辺城に戻り、十八日に幽斎とともに城を出、翌十九日に丹波亀山城に入った。
 こうして田辺城の戦いは幽斎の開城という結果で幕を下ろしたのだが、彼が城を出た十八日の時点では、すでに関ヶ原で西軍は大敗していたのである。そして程なく西軍のために最愛の妻ガラシャを失った忠興が来着、父幽斎とも一悶着の上、すさまじい勢いで小野木重勝の福知山城へと攻め寄せる。

 怒った将の兵は強い。福知山城へと向かう忠興は、紛れもなく怒っていた。


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