自由気ままに生きた武将 TOP3

戦国時代には非常に個性的な武将がたくさんいました。その中から自由気ままに生きた武将を3人紹介します。

第1位 前田利大(まえだ としおき)

 前田利大と書いてもピンと来ないかもしれないが、前田慶次郎、前田慶次なら歴史ファンならみんな知っているくらい有名な人物である。利太(とします)とする書もある。彼は前田利家の兄利久の養子であることから、一般的には利家の甥ということで知られている。彼はいわゆる「かぶき者」の最たる者で、いたずらの類の話は数多く伝えられている。そのうちの2、3を紹介しよう。

 彼は上杉家の直江兼続と親交があり、上杉家と伊達家との戦いに助っ人として駆けつけたのだが、そのとき背にした旗に「大ふへん者」と大書した。これを見た上杉家中の士が「大武辺者とは何事か、上杉家にも人はいる。助っ人のくせに上杉をなめるな」と怒った。これを聞いた彼は
「田舎者はこれだから困る。清濁を間違えてはいけない。私は遠くから駆けつけて来ているので土地勘もないし仲間もいない。大いに不便をしている。どうして『大不便者』と読まずに『大武辺者』と読むのか」
 これはもう人を喰ったとしか言い様のない問答である。

 また今で言う銭湯に入る際、鉄製の物を水や湯気にさらしていいはずはないのだが、脇差を下帯に差して入っていった。後から入ってきた無頼者の連中がこれを見て仰天し、あわてて自分たちの脇差しを取りに戻った。ここに奇妙な光景が現れた。湯舟にいる男たち全員の頭に脇差が乗せられているのである。しばらくして彼は湯舟を出ると脇差を抜き払った。一同に緊張が走る。
 さて次の瞬間、無頼者たちは唖然とした。彼の抜き払った脇差は竹光で、しかもそれを使ってまじめな顔で体の垢を丁寧にこそぎ落とし始めたのである。垢を落とし終わった彼は湯舟に戻ってこう言った。
 「いやあ、まことに気持ちがいい。さあさあ、みなさんも遠慮せずにどうぞ…」

前田慶次供養塔 さらに、前田利家を招待した際に「いい湯加減です」と言って水風呂に入れて逃げ出したり、隠居して「ひょっと斎」と号したり、とにかくいたずら三昧の生活を気ままに楽しんでいたようである。そのくせ松風という世に知られた名馬を持ち、戦場では鬼神のごとく強かったという。先に述べた合戦や佐渡の本間一族との戦い、長谷堂城の戦いにも活躍している。

 晩年の彼の消息は分からない。親友の直江兼続とともに米沢に移りそこで没したとも、京で没したとも言われている。【画像は慶次の供養塔(山形県米沢市)】




第2位 鈴木重秀(すずき しげひで)

 鈴木重秀より雑賀孫一(孫市)と書く方が広く知られているだろう。ただ、雑賀孫一は伝説上の人物で重秀=孫一と言い切れるわけではないが、私はそう思っているので以後は孫一と書くことにする。
 紀州雑賀荘といえば鉄砲である。彼は鈴木佐太夫の子で鉄砲の名手として知られ、本願寺と織田信長が戦った際に石山本願寺に鉄砲隊を率いて籠もり、信長に反抗した。雑賀衆は傭兵である。金を出せば雇われていく。ただ、彼は信長が嫌いであった。信長も彼らの力量と利用価値は十分承知していたが、どうやら高圧的な態度で交渉に出たらしい。それで孫一は信長に徹底抗戦することにした。

 本願寺の坊官にも鉄砲の達者下間一族がいた。加賀の七里三河(頼周)、長島願証寺の下間頼旦なども信長に徹底抗戦した。彼らが鉄砲に長じたのも孫一ら雑賀衆の影響があったのではないか。
毛利氏にも援軍を頼み、村上水軍の力も借りて長期にわたって本城を守った。孫一の指揮する鉄砲隊の前にはいかな信長でも退却をせざるを得なかったのだ。
 さらに孫一は騎馬鉄砲隊なるものを考案し、後にこれが伊達家に伝えられたとされているようだが、石山本願寺の攻防ではそれが使われた記録はない。彼の記録にははっきりしたものが少ない。羽柴秀吉と交わりがあったとする書もあるが、これもわからない。

雑賀孫市像 性格的には放浪癖があったようで、この点では上記の前田利大と似ている。鉄砲の達人として後世に伝えられている人物といえば、私の知るところでは孫一と稲富祐直、滝川一益、信長を狙撃した杉谷善住坊くらいであろうか。もちろん父の佐太夫や兄の重朝なども名手ではあったのだろうが、そこまでは知らない。

 彼はいつもの放浪癖である日ふらっと家を出て、それきり戻ってこなかった。暗殺説や病死説もあるようだが、この表現の方が彼にふさわしい気がする。
 もう少し歴史の表舞台に立っていて欲しかった人物の一人である。【画像は和歌山市駅前に建つ雑賀孫市像(和歌山市)】



第3位 水野勝成(みずの かつなり)

 「勝成あら者にて人を物ともせず」。こう評された彼は「戦国の異端児」と言っても良いかもしれない。したがって、その生涯は波乱に富んでおり、非常に興味深い人物のひとりである。
 彼は永禄七(1564)年に水野総兵衛忠重の子として三河岡崎に生まれ、徳川家康の従兄弟に当たる。十八歳で初陣を迎えて以来、十分猛将と呼ぶにふさわしい活躍をするのだが、ふとしたことから水野家を飛び出し、諸国を放浪することになる。そのいきさつは次の通りである。
 天正十二(1584)年の小牧・長久手の戦いの折りのことである。彼は当時目を患っていたため、兜をかぶらずに出陣した。これを父の忠重が咎めて「おまえの兜は小便壺にでもしたのか」とたしなめるや否や、いきなり馬に飛び乗って駆け出し、連れ戻しに来た家臣を追い返して秀次の将白井備後守の陣に躍り込み、一番首を挙げたという。しかもそれを父の前にではなく本陣の家康の前に持参し、大いに面目を施したというから、父の忠重にしてみれば面白かろうはずはない。忠重は戦後勝成に出陣停止処分を科した。
 さて、程なく今度は尾張蟹江城で戦いがあったのだが、勝成は出陣停止処分を無視して駆けつけ、負傷しながらも活躍し、またまた家康の賞詞を受ける。彼の行動を苦々しく思った父忠重の家臣富永半兵衛が、この件を忠重に告げた。勝成は虫の居所が悪かったのか、要らざる事をする奴め、とばかりに半兵衛を斬り、水野家を飛び出してしまう。忠重は当然激怒し、勝成を「奉公構い」とした。ここから彼の長い放浪生活が始まる。

 彼の足跡を辿ってみると、まず織田信雄、次いで家康のもとへ行くが、いずれも父の横槍が入り断念。その後秀吉の下に暫くいて紀州攻めや四国征伐に活躍、その戦功により摂津豊島郡で七百石余の所領を与えられた途端、またもや父の横槍で豊臣家を追われて放浪の旅に出る。
 しばらく京都にいた彼は、俗説では虚無僧の姿となり西国へ流れていったと伝えられる。そして美作の野武士のもとに身を寄せたかと思うと、喧嘩してこれを斬り捨てて飛び出し、肥後熊本の佐々成政にようやく千石で拾われたと思うと、程なく佐々成政が統治不行き届きの罪にて失領。次に黒田長政のもとへ行き、豊前一揆(城井谷騒動)の鎮圧に加勢し活躍したと思うと、一揆鎮定後に長政と衝突して出奔。やがてさらなる放浪の末、備中成羽城主三村親成のもとに居候となって住み着く。
 親成の処遇はよく、侍女との間に後の福山藩主勝俊をもうけるが、翌年茶坊主に恥をかかされたと言って斬り捨て、またもや逐電。いやはや何ともお騒がせな人物だが、時代は風雲急を告げていた。

福山城  彼は上方へ行き、東西緊張の中、伏見城の警護につく。そしてこれを耳にした家康が父忠重と対面させ、長きにわたった勘当を解かれることとなるのだが、それも間もない慶長五年七月、今度は父忠重がこともあろうに三河池鯉鮒で加賀野井重望に暗殺されるという大事件が起きた。家中の反対はあったが、勝成は長かった放浪生活に終わりを告げて刈谷三万石水野家の当主となった。以後彼は、関ヶ原や大坂の役の活躍で大和郡山六万石を経て備後神辺十万石の主となり、福山城を築き初代福山藩主となる。
【画像はJR福山駅のすぐ北にある福山城(広島県福山市)】

 ひとつ、良い話がある。彼は常々家臣達に「俺を親と思え、俺はおまえたちを子と思う」と言っていたが、ある鷹狩りの際、昔仕えていた者が混じっているのを見かけた。勝成は、
「懐かしいのう。俺のもとでは三百石だったが、越前では千石というではないか。それがなぜここにいるのじゃ?」
 彼はこう答えた。
「仰せの通り、越前で禄は増えましたが、下々の者まで懇ろに労っておられた殿が忘れられず、これは禄には代え難いと思い、暇をいただいて戻って参りました」
 勝成は大いに喜んで、即座に禄を増し与えたという。
 後に勝成はその優れた治績により名君と呼ばれるが、こういう言葉を残している。

「下の情をしる事はこれ虚無僧たりし故なり」
 苦労人勝成ならではの言葉であろう。
by Masa