壮絶な最期を遂げた武将 TOP3

戦国時代にはつきものの合戦。すさまじい死に方で世を去った武将もたくさんいます。ここでは壮絶な最期を遂げた武将たちの中から、特に3人を選んで紹介します。


第1位 高橋紹運(たかはし じょううん)

 正しくは高橋鎮種(しげたね)といい、居城の筑前岩屋城は太宰府天満宮の近くにある山城である。彼の妹は大友宗麟の嫡子義統の妻で、したがって彼は大友一族の一人である。
 メインページにも書いたが、紹運を語るとき忘れてはならないのが立花道雪と嫡子宗茂である。道雪は当時の日本全国を見渡しても五本の指に入る(と私は思っている)名将である。その道雪の一人娘に宗茂(当時は統虎といった)を入り婿させたわけだが、 ここに大友家の双璧とも言える二人を父に持つ立花統虎が誕生したのである。嫡子を婿にと所望されたときはさすがの紹運も悩んだ。しかし、大友家筆頭の名門立花家を断絶させるわけにもいかず、高橋と立花の両家で大友を最後まで支えようという道雪の私利私欲のない懇願の前に、ついに縁組みを承諾する。

 しかし、世にいう耳川の合戦で島津軍に大敗を喫してからというもの、大友氏は衰退の一途へと向かっていた。島津軍の攻勢は日に日に増大し、1586年についにその矛先が岩屋城へと向けられた。島津軍の総数約五万。これを紹運はなんと千にも満たない寡兵をもって迎えたのである。

岩屋城本丸跡  家臣たちは口々に紹運に援軍を求めるよう迫ったが、紹運は頑として受け付けなかった。少々の援軍などかえって相手の餌食になるだけの大軍なのである。加えて島津軍は勇猛果敢で知られる薩摩の精鋭である。そう、この時紹運はすでに玉砕を覚悟していたのである。開城を勧告する島津の軍使に対しても紹運はかたくなに首を振り続けた。かくして、壮絶な岩屋城攻めが始まった。
【Photo: 紹運激闘の地・岩屋城本丸跡。(太宰府市)】

 五十倍以上の敵に一歩も引けを取らず、紹運は半月以上も持ちこたえた。ある時は果敢に城を打って出、ある時は石や火矢を降り注ぎ、鉄砲玉を浴びせ、それこそ死にものぐるいの防戦抵抗であった。しかし所詮は多勢に無勢の悲しさ。とうとう城兵は一人残らず玉砕し、紹運も切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げた。島津の兵たちは皆、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したという。
 島津は勢いに乗って立花山城の統虎を攻めるが彼の強力な抵抗に遭い、奪取はできなかった。そこへ宗麟からの援助要請を受けた秀吉の援軍が迫ってきたため、島津軍はとうとう退却する。統虎はこれを追い、何と岩屋城まで取り戻したのである。

 この功により統虎は秀吉から筑後柳川領主に抜擢され、これを機に名を宗茂と改めた。凛々しい青年大名の誕生である。紹運もこれにはきっと喜んでいたことだろう。



第2位 山県昌景(やまがた まさかげ)

 武田騎馬軍団最強といわれた「赤備え」(鎧甲や馬具などをすべて朱色に統一)で有名な彼は、武田家の重鎮飫富(おお)兵部虎昌の弟である。「飫富(おお)」は「飯富(おぶ)」と書くものもある。 もともとは飫富源四郎と名乗っていたのだが、兄の虎昌が信玄の嫡子義信の謀反事件に加担した(虎昌が張本人とされている)罪で捕らえられ自害したことをきっかけに山県昌景を名乗った。

 その後彼は順風満帆の昇進を果たし、武田家猛将筆頭にあげられるほどになるのだが、実際のところ彼はどのような風貌をしていたのだろうか。
 彼は意外にも、非常に小男であった。その上当時の言葉でクチスサミ(欠唇)であり、風采ははなはだ良くなかったらしい。しかし信玄は人を外見だけで判断するようなちゃちな人間ではない。昌景は信玄の期待通りに活躍した。そして昌景の武名をさらに高める、徳川軍との三方ヶ原の戦いが起きる。 昌景は逃げる家康を浜松城まで追いつめた。まさにあと一歩で家康の首を取れる状況であった。しかし彼は引き返してしまうのである。ここで私の脳裏に一つの光景が浮かぶ。

 古く中国の三国時代、蜀の名軍師・諸葛亮孔明がこれも魏の名将・司馬懿仲達と戦ったとき、仲達は孔明の裏をかいて本城へ一直線に攻め寄せた。守る兵はほとんどいない。孔明は大手門を開放し、きれいに清掃させた上で高楼へ上り琴を弾じたという。 これを遠くから見て不気味に思った仲達は「敵は孔明、退くに如くはない」と退却していった。いわゆる「高楼弾琴」である。

 昌景はこのときの司馬懿仲達と同じような感覚を持ったのではなかったろうか。どうも私にはそう思えてならない。
 さて信玄が亡くなり勝頼の代になると彼は次第に遠ざけられていった。かの長篠合戦時にも、信長との正面対決を回避するよう進言し続けた彼の言はついに採り上げられず、両軍は激突した。

岩屋城本丸跡  結果は歴史が示すとおりであった。彼は死を覚悟し(突撃直前に勝頼にそう告げている)無謀を覚悟で馬防柵めがけて突撃していった。一斉射撃が起こる度に彼の周りがバタバタと倒れていく。また一斉射撃が起こった。彼は両腕に銃弾を受け采配不能になったが、死力をふりしぼって軍配を口にくわえて采配をふるった。と、その時、彼にとって最後の一斉射撃が起こった。
 頭に銃弾を受けた彼はどうと馬から転げ落ち、「赤備え」で敵を震え上がらせた武田家の名将が戦場の露と消えた。
【Photo: 長篠古戦場跡に再現された馬防柵の一部。(新城市)】

 さぞ無念であったろう。しかし先君信玄からもその死の際、意識朦朧とする中で「昌景、明日は瀬田に旗を立てよ」とまで信頼されていたという。
 昌景、もって瞑すべし。



第3位 大谷吉継(おおたに よしつぐ)

 彼は元大友家の家臣だとする説もあるが、定かではない。名前も「吉隆」が正しいらしいのだが、広く知られている「吉継」で書くことにする。
 秀吉の小姓からスタートした彼は当時紀之介と名乗っていたが、親友の石田三成の推挙もあり、着々と昇進を重ねていった。 やがて彼は越前敦賀城主となり、その娘は真田幸村の室となる。幸村も温厚堅実な義父吉継を非常に尊敬していた。夫婦仲もよく、この時期が幸村にとって一番幸せな時期だったろう。 しかし、時代の流れが風雲急を告げた。関ヶ原合戦の勃発である。
 吉継は最初東軍(家康方)につくべく敦賀を出て大垣まで来たところ、そこへ三成からの加担要請の使者が来た。前もって知らされていなかった彼は、「こんな重大事を水くさい」と思った。 しかし吉継には断れない理由があった。

 ある時秀吉の前で諸将が居並び、茶を回し飲みした。その頃すでに今で言うハンセン氏病に冒されていた吉継は、茶を飲もうとしたとき鼻汁を椀の中に落としてしまった。 それを見た諸将は気持ち悪がって飲んだふりだけして次々と椀を回していったところ、三成はそれを知っていたが何喰わぬ顔をして飲み干した。この時吉継は、三成のためには全力で協力しようと心に誓ったという。

 彼は三成の居城・佐和山城で色々説得を試みたが無駄であった。「もはやこれまで」と、ついに吉継は三成軍に身を投じる決意をしたのである。

大谷吉継の墓  周知の通り、関ヶ原の戦いはあっけなく終わった。彼の周りが皆一瞬のうちに寝返ったのである。小早川秀秋の裏切りには「やはり」とばかりに驚かなかった吉継も、すぐ隣に陣する脇坂ら四将の裏切りには呆然としたことであろう。この頃にはハンセン氏病も悪化して目も不自由になっていた彼は、輿に乗って奮戦したと伝えられる。彼の家臣たちも必死で戦った。しかし、所詮は無駄な抵抗であった。
 大谷隊全滅。吉継は輿の上で切腹し、家来の湯浅五助がその首を土中深く埋めたという。「智将」と呼べる数少ないタイプの名将の最期であった。
【Photo: 現地にある大谷吉継の墓。隣には湯浅五助の墓がある。(関ヶ原町)】
by Masa