第1位 小早川隆景(こばやかわ たかかげ)
毛利元就の三男に生まれ、戦国期屈指の知将として知られる彼は、兄の吉川元春とともに「毛利両川体制」と呼ばれるスクラムを組んで本家を支えた。山陰方面を任された兄の元春は猛将として有名だが、山陽方面を担当した隆景は非常に思慮深く、物事を決するに当たっては十分に考え抜いた上で慎重に臨んだという。また領民からも慕われ、三原城完成の際には喜んだ領民たちが三味線や太鼓、笛などを鳴らして踊り、それが現在もなお「三原やっさ祭り」として伝えられている。 隆景の最も有名な逸話は、何と言っても本能寺の変の際の決断である。 【Photo: 三原城跡・隆景広場にある隆景像】
備中高松城に毛利家勇将・清水宗治を水攻めにより閉じ込めた秀吉の元に本能寺の変を告げる使者が駆け込んだときのこと。ご存じの通り秀吉は毛利方の外交担当・安国寺恵瓊を通じて急遽和睦をとりまとめ、「中国大返し」と呼ばれる退転を行い、明智光秀を山崎で撃破したことは史上名高い。
このとき何故毛利軍が秀吉を追わなかったか。実は兄の吉川元春は強硬に追撃を主張したと言われる。しかし隆景は、 「天下はやがてかの者(秀吉)のものとなる。今追撃すればやがてはかの者を敵に回して正面衝突するのは必定。ここは黙って見過ごし、中国者の度量を見せて彼に恩を売っておくべきだ。必ず当家にとって有利な展開になる」 と元春を説き伏せた。元春も隆景の知恵深さには一目置いていたので、しぶしぶながらもこれに同意したという。あとは歴史の示す通りで、後に彼は秀吉からも非常に信頼され、豊臣家五大老に選ばれることになる。
また彼は軍事的にも「村上水軍」と呼ばれる瀬戸内海の海賊の頭領・能島武吉(のしまたけよし)を傘下に持ち、小早川水軍は毛利家唯一の強力な水軍でもあった。彼は温厚にして博識、家中の信頼もあつく、誰からも慕われる人柄であったという。「陸の人間」をあまり信じない海賊上がりの能島武吉でさえ、隆景の言には異を唱えることなく従ったという。しかし惜しいかな、彼は関ヶ原目前に病を得て亡くなってしまうのである。 【Photo: 三原市の米山寺にある小早川家歴代の墓】
彼は義を知る戦国の名将として後世に語り継がれた。これには誰も異論はないであろう。
第2位 谷 忠澄(たに ただすみ)
通称は忠兵衛。彼は長宗我部元親の重臣で、長宗我部家代々ゆかりの深い一の宮神社の神主だったとされている。彼は歴史表にはあまり出てこないのだが、主家のために命をなげうって果たした二つの有名な史実がある。それを紹介することにしよう。
まず、元親が秀吉と衝突した、いわゆる秀吉の「四国征伐」のときのこと。忠澄は秀吉軍との戦いの無益なことを主君元親に何度も言上したが採り上げられず、やむなく最前線の阿波一宮城にたてこもって籠城戦を展開した。相手は豊臣秀長八万の大軍である。 忠澄は善戦し、よく持ちこたえた。これを聞いた秀吉は「小城一つに何を手間取っている、わし自身が向かうから待っておれ」と怒った。秀長は一時休戦を提案し、軍使を派遣して上方軍と戦うことの無意味さを忠澄に強調した。彼はもとよりそのことはよくわかっているので、元親のもとに再度説得に向かった。 【画像は忠澄の籠城した阿波一宮城本丸跡(現徳島市一宮町)】 評議はほぼ降伏論に傾いたが、元親一人が頑として応じない。ついには激怒し、忠澄に「腹を切れ」とまで命令し、家臣たちも決戦を覚悟した。しかし彼は屈せず、三日三晩かけてすべての重臣たちを再度説き伏せ、連名で元親に再考を願った。ついに元親も折れた。この瞬間、土佐一国と長宗我部家の存続が決まったのである。
もう一つは秀吉の九州征伐のときのこと。抵抗する島津軍との最前線で元親と十河存保(そごう・まさやす=一存の子)、軍監仙石秀久の秀吉軍が対峙し、島津軍は「釣り野伏せ」というお家芸の計略でこれを撃破した。いわゆる戸次川の戦いであるが、このとき十河存保とともに元親の長男信親が戦死してしまったのである。 元親は限りなく悲嘆し、魂の抜けた、蝉の抜け殻のようになってしまったという。彼は忠澄に信親の死骸を引き取ってくるよう頼み込んだ。まだ交戦中の敵のもとへ行き、死骸を引き取る…きわめて危険なことである。しかも島津軍の大将は豪将・新納忠元である。しかし忠澄は出かけていった。
忠元は「私がその場にいたら、決して信親殿を討ち取ることはなかったであろうに。これは神に誓って偽りではない。戦の常とはいえ、まことに申し訳ないことをした。元親殿の心中をお察しする」と、忠澄に詫びたという。さらに忠元は丁重に忠澄を遇し、信親の死骸を火葬し、使僧まで同行させて忠澄を送り届けたという。 非常にいい話である。後にこれを聞いた総大将島津義弘も元親の心中を察し、涙したという。
戦後忠澄は中村城主となり善政を敷いた。自分の身を顧みず、常に主君を支えた土佐の名将であった。
第3位 直江兼続(なおえ かねつぐ)
従五位下山城守。越後坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の子で、初め与六と名乗り、上杉景勝(当時は長尾喜平次)の小姓であった。やがて彼は越後の名家・直江氏を継ぐ。上杉謙信には二人の養子景勝・景虎がいて、謙信没後の家督相続争い、いわゆる「御館の乱」から彼は歴史表に登場してくる。 頭脳明晰で該博な知識を持つ兼続は、軍事面でも優れた資質を持っていた。景勝は非常に口数の少ない主君だったが、兼続と語るときだけは色々よくしゃべったという。また彼は同年齢の石田三成と親交があり、後に起こる関ヶ原の合戦は兼続と三成の示し合わせによるものだという説があるが、これはどうであろうか。私にはそうは思えないのだが。
さて、景勝は秀吉には逆らわず忠実な臣下の大名として振る舞っていたが、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)のさなか、会津百二十万石の大大名に封ぜられた。そのとき兼続は何と米沢三十万石の領主となったのである。いくら秀吉の意向があったにせよ、陪臣の身としては異例かつ破格の抜擢である。秀吉は兼続の非凡さを高く評価していたのだ。
兼続を強く世に知らしめたことといえば、何より「直江状」と呼ばれる書状である。これは関ヶ原の際、上杉家が軍備増強や領内の整備、城の改築をしていることを「謀反の兆しあり」と家康が言いがかりをつけてきたことに対する返書のことで、以下にその内容を私なりの表現で記そう。
「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ色々な風説が飛びかうのに、上方とここ会津は非常に遠く、どんな間違った風説がたとうとも何ら不思議ではない。また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を一年もたたずに踏みにじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。景勝には謀反心など全くない。上方では茶の湯など、およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜かしておられるようだが、我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てるよう武具をととのえ人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。道を整え河川を修復するのは領民のため以外に何があろう。一国の領主として当然のことではないか。それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?
前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。我々は心ない人々の告げ口にいちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。このような理不尽なことでわれらを咎められるおつもりならばそうされよ。いつでもお相手をいたそう」
家康相手にここまで言い切ったのは、日本広しと言えども兼続ただ一人である。しかし関ヶ原は家康の勝利に終わり、上杉家は米沢三十万石に減封された。これとて本来なら当然上杉家は改易、兼続は切腹のはずである。しかし兼続は結城秀康を頼って上手く立ち回り、またその悪びれない態度が上杉家を残した。 彼は景勝に従い同地で五万石を給されたが、そのほとんどを臣下に分け与え、自身は清貧な生活を送り世を終えたという。【画像は兼続夫妻の墓(山形県米沢市)】
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