処世術に優れた武将 TOP3

自分の家の存続を賭けて、どの勢力につくか?ここでは処世術に優れ、戦国時代をうまく泳ぎ切った武将たちの中から、特に3人を選んで紹介します。


第1位 藤堂高虎(とうどう たかとら)

 この人物は主家を何と7回も変え、最終的には、藤堂家は江戸幕府外様大名筆頭として存続した。彼はいわゆる「風見鶏」大名として有名だが、果たしてそうだったのだろうか。

藤堂高虎像 高虎は、近江国の生まれで、最初は浅井長政に仕えていた。かの姉川の合戦にも参加しているのである。彼はこのときが初陣で、長政麾下の猛将・磯野員昌のもとで奮戦し、徳川家康軍と大激戦を演じた。浅井氏滅亡後は浪人となり、主家を転々と渡り歩いてゆく。
 そんな彼に目を付けたのが、秀吉の弟・羽柴小一郎秀長である。これ以来高虎は秀長に仕え、羽柴(秀長)家の家老にまで昇り、軍政両面にわたって活躍する。【画像は津城跡にある高虎像(津市)】

 秀長の死後、世嗣の秀保が早世したため、一時高野山へ隠棲するが、まもなく秀吉の招聘で直参大名となる。そして、朝鮮の役でも活躍し、このころから家康への接近も始まるのである。彼は関ヶ原では東軍に属し、家康の信任もひとかたならぬものがあった。なぜであろうか。

 それは高虎のもつ技量を高く評価していたからである。諜報活動にも長じ、築城術にも優れている上、秀長の家臣だった頃、生野銀山の開発にも携わっている。さらに鉄砲の扱いも上手いのである。だから、家康のみならず、どの大名も彼がほしかったに違いない。

 彼は次代の権力を早く見定め、先手先手と行動した。これはなかなかできることではない。一歩間違えば、家は断絶。情報網を張り巡らせ、冷静な判断力でこうと信じたことは果断即決で行動し、それがことごとく成功する。彼こそ、戦国期ナンバー1の「ラッキーボーイ」ではなかったろうか。


第2位 細川藤孝(ほそかわ ふじたか)

 彼は元足利幕府の幕臣で、13代将軍・義輝が三好・松永一党に暗殺されたとき、出家していた義輝の弟・覚慶を幽閉先から救い出して還俗させ、15代将軍・義昭(当時は義秋)を誕生させることから歴史に登場する。

 藤孝は当時超一流の文化人で、朝廷とも親しく典礼にも通じ、書道・歌道・茶道など、どれをとっても一級の人物で、きわめて教養の高い人であった。
 さて、義昭を担いだ頃は室町幕府の再興にすべてをつくしたが、義昭がたのみにならない将軍と知るや、信長に接近している。信長も彼の素養を高く評価し、朝廷とのパイプ役として重用した。信長が義昭を追放した際にも藤孝は特に罰せられず、後に秀吉にも重用される。秀吉は出自が卑しいので、藤孝のような人物は、のどから手が出るほど欲しかったのであろう。

南禅寺天授庵の庭 【画像は藤孝ゆかりの南禅寺天授庵(京都市)】

 彼は明智光秀と親交があり、光秀の娘(ガラシャ夫人として有名)を嫡子・忠興に迎えている。本能寺の変の際、光秀は藤孝に協力を再三要請したが、彼は動かなかった。それどころか、光秀の娘を幽閉し、完全に義絶の態度をとったのである。やはり聡明な藤孝には、光秀では天下が握れないことをよく知っていたのである。
 秀吉にも重用され、秀吉の死後はいち早く家康に接近している。聡明で先見の明があった彼は、迷うことなく「寄らば大樹」を地でいった。しかし、その行動にいささかも「汚さ」や「追従」といった面が見られなかったのは、ひとえに彼の教養と気品、人格にあるのではないかと思われる。

 彼は、晩年は穏やかで満足した生活を送ったであろうと思われる。息子の忠興は九州の大大名となり、幕末まで、いや、現在まで脈々と家系を残している。「熊本のお殿様」の愛称を持つ細川護熙元首相は、この藤孝の直系末裔であることは広く知られている事実である。


第3位 島津義久(しまづ よしひさ)

 島津家は鎌倉以来の九州薩摩の名家で、彼は島津家中興の祖・貴久の長男である。最初の危難は九州統一直後に起こった。いわゆる秀吉の「九州征伐」である。

 最初、彼は秀吉に抗戦する。義久には3人の弟がおり、これがまた衆を超えた力量の持ち主であった。次男の義弘は天下に名をとどろかせた猛将。三男の歳久は知謀に優れていたといわれ、四男の家久は軍略に長じていた。この家久は、島原・沖田畷の合戦で、猛将・龍造寺隆信の首をあげている。

 緒戦は島津軍の優勢であったが、いかんせん兵力に差がありすぎ、撤退を余儀なくすることになる。弟たちをはじめ、家臣たちは皆徹底抗戦の意見でまとまっていたが、義久は独断に近い形で降伏を申し出る。これは、当時の薩摩人の感覚からは到底不可能なことであったろう。しかし、義久は直ちに動いた。このおかげで、領土は大幅に削減されたものの、島津の名は残ったのである。
 次の危難は、朝鮮の役の際に、なんと一部の配下の武将たちが秀吉に反旗を翻したのである(梅北国兼の乱)。このとき、反乱自体はすぐに鎮圧されたのだが、その中に三男歳久の家臣が混じっていたことから、秀吉から「歳久の首を討て」と厳命される。長年苦楽をともにし、常に兄である自分を支え続けた弟を討つことは、まさに断腸の思いであったろう。しかし、義久は歳久を討った。
 秀吉は、なんとかして島津の力を弱くしたかったのではないか。その証拠に、この後間もなく四男の家久までが、秀吉の弟・秀長との会食中に急死している。おそらく秀吉の手による毒殺ではなかったか。しかし、証拠はない。

義久の墓  最後の危難は、関ヶ原の後である。西軍に義弘が参加し、有名な敵中突破の退却行をして戻ったときのこと。義久は直ちに臨戦態勢を固め、徹底抗戦の構えを見せながら、外交力を駆使して家康側近には取りなしを頼み、家康には陳謝を繰り返し、見事に危機を乗り切ったのである。
 彼は歴史的にはあまり華々しい活躍はしていない。しかし、彼こそが本来「大将」と言える代表的人物のトップクラスであったことは、私は間違いないと確信している。
【画像は金剛寺跡に残る義久の分骨墓。(鹿児島県国分市)】
by Masa