謀略三昧を尽くした武将 TOP3

自分の利益のためには手段を選ばず、謀略の限りを尽くして勢力を拡大することも、平然と行われた戦国時代。ここでは、特に謀略に長けた武将3人を選んで紹介します。


第1位 斎藤道三(さいとう どうさん)

 この人物は一介の油売りから身を起こし、ついには美濃の大名にのし上がった、典型的な戦国大名である。北条早雲・豊臣秀吉と並ぶ、戦国時代特有の「成り上がり大名」の最たるものであろう。

 彼は、実によく名前を変えている。まず、京の日蓮宗妙覚寺の日善上人の弟子で法蓮房を名乗る。彼はこのときから弁舌優れ、非常に頭も切れたらしい。さて、しばらくして、一人の少年が寺に入ってきたのだが、この人物が道三の運命を大きく変えることになる。
 その少年は南陽房(のちに日護)といい、美濃の名家・長井利隆の弟であった。法蓮房はやがて還俗し、松波庄五郎(庄九郎ともいう)を名乗り、油売り商人となる。持ち前の器用さを生かし、一文銭の穴を通して油を壺に入れるという芸を武器に、南陽房のつてを頼り、やがて長井家に出入りが許されるようになる。
 そのうち、長井家の当主・長弘の目に留まり、土岐頼芸の元に仕官を推挙される。頼芸もいたく気に入り、当時の家老だった西村家に後嗣がなかったことから彼をその養子として家を継がせた。ここで、庄五郎は西村勘九郎と変名する。もう立派な武士である。

 ここで、守護の土岐氏に内紛が起こる。というより、勘九郎が仕掛けたのである。これにより、無能の頼芸をトップに据え、今度は世話になった長井長弘をも殺して長井家を乗っ取った。ここでまた長井新九郎と名が変わる。さて、次は頼芸である。しかし、そうは簡単にいかなかった。
 彼に恨みを持つ長井一族などが結束し、戦いとなったが、勝てない。やがて隣国の大名たちが仲裁に入り和睦の扱いとなるが、これを機に剃髪して道三を名乗る。1年後道三は兵を出し、頼芸を追放し、ついに美濃一国の国主となった。

道三の墓  しかし、家臣たちは道三に反発する。そこで、家督を嫡子(頼芸の子と言われる)義龍に譲って隠居し、家中も静まった。しかし、結局は義龍と戦い、我が子によって殺されることになる。死に臨んで、彼の心中は満足だったのか、それとも無念だったのであろうか。戦国の梟雄は長良川の河畔に露と消えた。
【Photo: 岐阜市道三町にある道三の墓。本来の墓は、流れが変わった長良川の水底に沈んだという】




第2位 松永久秀(まつなが ひさひで)

 日本の歴史上、梟雄といえばまず彼の名が出て来るであろうと思われるほど、悪名高い人物である。その悪名高い所以とは…

 彼の出自は明らかではない。歴史上に姿を現してくるのは、三好家の重臣として台頭してきた頃からである。彼には長頼という弟がおり、天文年間末期より三好家の丹波方面司令官として活躍していた。初めはむしろ弟の方が軍事的に有能な武将として、三好家内では評価が高かったのかもしれない。
 さて、久秀が織田信長の傘下にいた頃、信長が徳川家康に久秀を紹介するのに次のように言ったと伝えられている。
 「これは松永久秀である。彼は将軍を殺し、主人である三好氏には恩を仇で返し、さらに、奈良の大仏殿を焼いた。これらのことは古来、人間ならばまずできないことである」
 信長一流の痛烈なイヤミを受け(信長はそういう気はなかったのかもしれないが)、さすがの彼も恥と怒りで顔が赤くなったと言われる。

久秀の京都屋敷跡  手始めは主家三好氏からの独立である。まず、当主長慶の嫡子・義興を毒殺したという。義興は久秀には常に批判的でウマが合わなかったらしい。これに気を落とした長慶もまもなく病死するのだが、これも久秀による毒殺のうわさが流れた程である。
 また、長慶の弟二人もこれより先に不可解な死を遂げている。確証があるわけではないが、久秀ならやりかねなかったろう。こうして、久秀は三好氏の近畿の勢力地盤を手に入れたのである。
【Photo: 久秀の京都屋敷跡。今は妙恵会(みょうえかい)墓地となっており、久秀父子の墓がある。(京都市)】

 次は将軍暗殺。当時の将軍義輝は、長慶の死を機に越後の長尾景虎を頼り、一気に三好氏を追い出そうと考えていた。久秀は三好三人衆と謀り、子息久通に兵を与えて御所へ向かわせ、そのまま軍勢を乱入させた。義輝は剣豪・塚原卜伝直伝の剣術の達人であったので、かなわずと知るや三好・松永勢は戸板で義輝を包んで押し倒し、そのまま槍で戸板ごと串刺しにして殺してしまった。
 最後に大仏殿。これは筒井順慶・三好三人衆との戦いで敵勢が東大寺に陣を張ったところへ夜襲をかけ、直接焼いたのではないにせよ、結果的に由緒ある大仏殿が焼けてしまったのである。

 その久秀も信長の実力の前には歯が立たず傘下におさまるが、たびたび謀反しては許されている。これは信長が彼の利用価値が高いと判断したからだろう。上杉謙信の上洛決定の際、久秀は最後の反乱を起こした。最強の上杉軍の前には信長といえども歯が立つまいと判断したのである。しかし、謙信は脳卒中で突然世を去ってしまう。

信貴山  彼は信貴山城に籠もるが、結局は敗れて炎上する城とともに滅んだ。一説に降伏勧告をはねつけて名器「平蜘蛛」茶釜に火薬を詰め、しばしの抗戦の後に天守閣もろとも吹っ飛ばして壮絶な爆死を遂げたという。これが事実なら、おそらく歴史上でこのような死に方をしたのは、彼が初めてではあるまいか。
 ここに戦国一の梟雄は微塵に砕け散った。その日十月十日は、奇しくも彼が十年前に大仏殿を焼いた日であった。
【Photo: 久秀の居城・信貴山城跡(奈良県平群町)】
(画像提供:平群町教育委員会)   久秀の詳細は →松永久秀 〜戦国の梟雄〜



第3位 北条早雲(ほうじょう そううん)

 彼は元は伊勢新九郎と名乗る備中国(伊勢説もあり)の浪人出身で、前半生はよくわからない。ただはじめ足利義視に仕え室町幕府政所執事を務めていたが、立身出世を志し妹が駿河の今川義忠の妾であったことから、それをつてに駿河へと渡った。ここから彼の後半生がスタートする。

 たまたま彼が駿河に入ったとき、義忠が急死して世継ぎ騒動が持ち上がった。隣国から扇谷上杉軍が兵を差し向けてきたが、新九郎は妹との縁からこの内紛を上手く利用し、ひとり上杉軍を撤退させるために使者となり乗り込んでゆく。弁舌に長けた彼は上杉軍を撤退させることに成功し、その功により興国寺城主となる。
 そのうち、隣の韮山城主が死に、これが名家北条家であったことからその名跡をもらおうと、一人娘と婿入り結婚してついに北条姓を手に入れる。ここに北条新九郎となった彼は、家督を息子・氏綱に譲り、北条早雲(早雲庵宗瑞)を名乗る。その時、伊豆の足利政知の死をめぐりお家騒動が持ち上がったのだが、好都合なことに当時関東では山内・扇谷両上杉が交戦中で、伊豆にはわずかな警備兵程度しか残っていなかった。新九郎はここぞとばかりに攻め込み、ついに伊豆一国を手に入れてしまう。

小田原城  地盤を固めるためにどうしても要衝小田原城が欲しかった彼は、一計を案じて城主・大森藤頼の追い出しに成功、ここに後北条氏の基盤が固まった。また早雲は諜報活動の重要性を特に感じており、相州乱波として名高い風間村出身の風魔一族は、統領小太郎とともに北条氏の諜報を司る忍者集団として有名である。
【Photo: 現在の小田原城。箱根の早雲寺には歴代の墓所がある。】


 北条氏はその後氏綱、氏康という名将が後を継ぎ、関八州に君臨する大大名にのし上がったが、5代氏直の時、秀吉に抗し小田原攻めを行われて父の4代氏政は切腹、氏直は高野山へ放逐されて北条氏は滅亡する。
by Masa