御家騒動に揺れた大名家 TOP3

戦国時代では当主大名の跡継ぎをめぐり、家中が割れて争うことも日常茶飯事でした。ここでは、特に御家騒動で揺れた大名家を3家選んで紹介します。


第1位 上杉家【御館(おたて)の乱】

 天正六(1578)年三月、戦国史上最強の武将で軍神とまで言われた上杉謙信が、織田信長との上洛戦を目前に急逝した。暗殺説もあるが確たる根拠はなく、大酒癖があったことから、いわゆる脳溢血と考えるのが妥当であろう。ところで、謙信には実子が無く、当然遺言も無かったことから3人の養子のうち、景勝と景虎の間で相続争いが勃発した。

 景勝は謙信の実姉と長尾政景との間に生まれた子で謙信の甥に当たり、また景虎は北条家から来た養子ではあるが、名将・北条氏康の実子で当主氏政の弟であった。このため景虎は名家意識が強く、寡黙で地味な景勝とは元々あまりしっくりいっていなかった。
 景勝側は主な重臣や仇敵・武田勝頼の協力も得て最初から優勢ではあったが、景虎側にも本庄秀綱ら有力武将と、何より北条家の全面的バックアップがあった。

御館跡 長引けば形勢がどうなるかわからない状況の中、景勝はてきぱきと手を打ち、いち早く春日山城を確保する。景虎は元上杉憲政の居館であった御館にたて籠もり抵抗するが、翌1579年3月、景勝は御館に総攻撃をかけた。
 奮戦するも支えきれないと見た景虎は、北条家に戻るべく小田原城へと脱出を試みたが、途中で景勝軍に追いつかれてついに討ち取られた。また、抵抗を続けていた本庄秀綱らもやがて次々と降伏し、足かけ3年に及んだ御家騒動もここに終結した。(画像は新潟県上越市に残る御館跡)


第2位 今川家【花倉の乱】

 あまり広くは知られていないが、戦国時代とは言え、今川家ほど大小の御家騒動に悩まされ続けた家も珍しい。このときの当主は氏輝であったが、当時氏輝は北条氏綱(氏康の父)と協力して甲斐の武田信虎(信玄の父)と交戦中であった。ところが1536年、その氏輝とすぐ下の弟が突然急逝した。時に氏輝まだ24歳の若さであった。

 ところで、氏輝には2人の弟がいた。遍照光院の住持である玄広恵探(げんこうえたん)と善得寺の喝食・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)である。しかも玄広恵探は年長ではあるが氏輝の父・氏親の側室からの生まれで、梅岳承芳は年少ではあるが氏親の正室からの生まれという複雑な背景もあり、家中が割れた。
 まず恵探が家督相続を主張したが、氏親の正室・寿桂尼は承芳に家督を継がせるべく重臣たちに働きかけた。そのとき活躍したのが今川家の名軍師として名高い太原雪斎である。彼の説得により重臣たちのほとんどが承芳側につき、恵探は孤立した。
 しかし野望を捨てきれない恵探は、花倉城に籠城して着々と戦備を整える。そこへ承芳の軍が押し寄せて城を包囲した。孤立状態に近い恵探は支えきれず、とりあえず城外への脱出には成功したが、追撃の手をゆるめない承芳軍の前に絶望し、ついに普門寺にて自刃したのである。
 勝利を収めて跡継ぎとなったこの梅岳承芳こそ、後の今川義元その人である。


第3位 大友家【二階(楷)崩れ】

 大友家は鎌倉初期から島津家・小弐家と並ぶ「九州三人衆」と呼ばれる名家で、当時の当主は義鑑(よしあき)であった。長男の義鎮(よししげ)はやや粗暴な性格のため、義鑑は三男の塩市丸を偏愛した。これが後に流血騒ぎを引き起こす御家騒動の発端となる。

 こういう父の仕打ちがさらに義鎮の心を荒らす結果となり、行状の改まらない彼は義鑑の手により別府の別館に幽閉されてしまった。今がチャンスとばかり、塩市丸の母は重臣入田(にゅうた)丹後守に取り入って家督を塩市丸に相続させるよう義鑑に迫った。それを受けた義鑑は5人の重臣(入田丹後守・津久見美作守・斎藤播磨守・小佐井大和守・田口蔵人佐)を呼び、塩市丸の家督相続を打診した。入田以外の4人の重臣たちがことごとく反対したため、これらを除くため翌日再招集をかけ、斎藤と小佐井を謀殺したのである。

 たまたま難を免れた津久見・田口の両名は「もはやこれまで」と義鑑の居館に斬り込み、奥方と塩市丸を斬殺し、義鑑にも重傷を負わせた。このため府中(大友氏本拠地)は一時大混乱に陥ったが、駆けつけた重臣佐伯惟教によって間もなく鎮められた。

大分市にある義鑑の墓  天文十九年二月十二日、重傷の義鑑は重臣たちも居並ぶ死の床に義鎮を呼び、今までの仕打ちを詫びた上に家督相続を申し渡した。義鑑はその直後に息絶え、自らが建立した野津院寺小路村の到明寺に葬られた。(画像は大分市(旧野津町)に残る義鑑の墓)
 生き残った入田丹後守は義父の阿蘇惟豊を頼って逃げたが、その所業に激怒され、逆に斬られてしまった。義鎮はこれにより大友家を継いで第21代当主となり、後に宗麟の名で広く知られるキリシタン大名となる。
by Masa