第1位 山中幸盛(やまなか ゆきもり)
この人物は山中幸盛と呼ぶよりも、山中鹿介という名の方が広く世に知られていると思われるので、以下は鹿介と書くことにする。
彼は尼子家家臣で、尼子十勇士の筆頭に数えられている勇将である。また、非常に美男子としても知られ、私が勝手に選ぶ戦国美男子ベストスリーの一人(他の二人は木村重成と名古屋山三郎)である。
当時の尼子家当主は義久で、鹿介は彼に従い数々の戦功を挙げた。しかし、義久は尼子の名君・祖父経久とは比ぶべくもない人物で、家中もまとまりに欠け、毛利家に押され気味となっていた。そのうち、毛利家との一大決戦が起こり、名城月山富田城もついに落城、義久は毛利元就に降伏するのだが、この戦いにおいて面白いエピソードがあるので紹介しよう。
毛利方の将・益田越中守藤包の家臣に品川大膳という豪の者がいた。彼は鹿介と一騎打ちを望み、自らの名を「(たら)木狼之助」と改名した。鹿はの木の若芽を食い、角を落とす。また、狼は鹿を獲物としているところからこの名を付けたという。そして月山富田城攻防戦において、両者の一騎打ちが実現した。両軍の兵士がそれぞれの勇士に声援を送る。やや時代遅れの感のある戦いではあったが、鹿介はついに相手を仕留めた。
鹿介が狼之助に勝ったとて大勢は覆らず、ついに義久は開城降伏する。鹿介は京へ逃れて再起を図るが、義久にもうその気迫はなかった。鹿介は織田信長の力を借り、尼子一族の勝久を奉じて御家再興の旗を揚げる。一旦は月山富田城の奪回に成功したものの、すぐに取り返されてしまった。鹿介はそれでも諦めずに秀吉の麾下に属し、上月城に籠もる。そこへ毛利軍が殺到した。
さすがの秀吉も毛利の大軍の前に手が出せず、信長へ助けを求める。しかし、信長は上月城を見捨てよと命令を下した。秀吉は苦しむが主命は絶対、上月城から撤退する。
上月城落城、勝久は切腹。鹿介は吉川元春の手に捕虜の身となるが、観念した様子を装いながらも、密かに元春あるいは毛利輝元と差し違えようと目論んだ。しかし元春に油断はなく、逆に底意を看破された鹿介は護送中に謀殺された。一途に主家再興を願い、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという山陰の勇将は、天正六年七月十七日、備中高梁川・阿井(「合」とも書く)の渡しでその生涯を閉じた。
【Photo: 阿井の渡し付近(岡山県高梁市)】
余談だが、彼の次男の新六が摂津国鴻池村(現兵庫県伊丹市)に住みつき、鴻池善右衛門と名を変えて代々清酒を造るようになったことは有名である。
第2位 鳥居勝商(とりい かつあき)
彼も山中鹿介同様、鳥居勝商というよりも、鳥居強右衛門(すねえもん)と言った方が有名なので、強右衛門と書くことにする。
彼は徳川家康配下、奥平信昌の家臣であるが、彼が歴史に登場するのは後にも先にもかの長篠合戦の時だけである。というより、私はそれ以外の彼の話を知らない。これはあまりにも有名な、そして日本人の心に深く残る出来事である。
信玄が没し、斜陽の武田家を盛り返そうと武田勝頼はしゃにむに領土拡大を目指し、三河長篠城を大軍で包囲した。守将は奥平信昌である。信昌は家康の元へ援軍要請を出したいのだが、いかんせん相手は大軍で城を包囲しているのでどうしようもない。そこで援軍要請の為に決死の覚悟で城を抜け出る勇士を募った。一同誰も声はない。それも当然、仮に万一首尾良く抜け出せたとしても、無事に帰り着く事などまずあり得ない状況であった。
【Photo: 長篠城跡(愛知県鳳来町)】
しかし、強右衛門はその役を志願した。そして、非常な苦労と危険を冒しながらも、奇跡的に城外へ脱出することに成功したのである。彼は走った。岡崎まで無我夢中で走った。そして家康の元にたどり着き、援軍要請を告げ、直ぐに引き返した。
岡崎には何と大軍を率いた信長も来ていた。信長は強右衛門の行動に感動し、あとはまかせよ、ゆっくり休めと伝えたが、強右衛門は聞かなかった。喜びのあまり、彼の頭の中には、とにかくこの吉報を一刻も早く長篠へ知らせることしかなかったのである。そして、これが彼の人生を凄まじい結末へと導いた。
長篠近くまで百姓姿になって戻ってきた強右衛門は、最後の最後で敵に発見され、捕らえられた。勝頼の前に引き出され、「城に向かって”援軍は来ない”と言えば命は助けてやる。さらに、褒美もやろう」と持ちかけられ、渋々ながらも神妙にそれに同意する。むろんこれは見せかけだけで、彼の本意ではない。彼は自分は死すともあくまで信昌に吉報を伝える気であった。これには異説もあるようだが、私はこう思っているので悪しからず。
長篠城の前に強右衛門を縛り付けた磔柱が立てられた。武田家の将が彼に言う、「さあ、援軍は来ないと言え」。しかし彼の口からはこんな言葉が出た。少し小説風に書いてみよう。
「おーい、皆の衆!気を落としちゃいかんぞお。御館様や信長様の援軍はもう岡崎まで来とるぞお!三万もいるぞお!鉄砲もたんとあるだで、あとひと踏ん張り、負けるなやあーっ!」
彼の言葉が終わらないうちに、激怒した勝頼の命令により強右衛門は城衆の目の前で処刑された。これを見ていた信昌はじめ城兵は、みな声を上げて泣いたという。結局勝頼は織田・徳川連合軍の三千挺とも伝えられる鉄砲隊の前に壊滅的な打撃を受けた。以後武田家は急速に弱体化していき、天正十年には滅亡という結末を迎える。
【Photo: 長篠城の川向かいにある勝商磔死地跡に建つ碑(愛知県新城市)】
彼の行動に感動した武田方(!)の落合佐平治は、その磔姿を旗印にしたという。彼は落命したが、きっと本望だったろうと私には思えるのである。
墓は作手村の甘泉寺にある。作手村市場郷は強右衛門の妻の出身地で、何と信長が墓を作らせたという。
第3位 稲葉一鉄(いなば いってつ)
彼は稲葉通則の子で、もともと美濃国崇福寺の僧であったが、父が戦死したため還俗して斎藤龍興に仕えて曽根城主となる。正しい名前は伊予守長通で、後に入道して一鉄仙斎を名乗る。
彼は「一途に意志を貫いた武将」というより、単なる「頑固者」かもしれないのだが、私はそんな彼が何となく好きなのでここに挙げさせていただいた次第である。
一鉄は斎藤家の重臣で、安藤守就・氏家ト全とともに「美濃三人衆」と呼ばれており、主君龍興の信頼も厚かった。しかし道三、義龍と続いた名君の後継ぎとしては龍興は明らかに役不足で、家臣たちの結束も次第に揺らぎ始める。
龍興に愛想を尽かした一鉄は、1567年織田信長に内通して龍興を追い(稲葉山城の戦い)、ここに斎藤家は滅亡する。一鉄は続く姉川の戦い、朝倉征伐、長島一向一揆、加賀一向一揆と立て続けに戦功を挙げ、織田家中からもその戦巧者ぶりを認められた。
さて、これだけなら何ら一般の武将と変わりがないが、彼の彼たるエピソードがある。姉川の合戦の際、一鉄は徳川家康軍への加勢を命じられ、その奮戦によって信長軍は危ないところを救われた。戦後信長から功名第一と賞されたが、この時に信長に向かって言った言葉が凄まじい。相手はあの信長である。
「殿は盲大将におわすか。このたびの勝利はひとえに三河殿(家康)のお力によるものであることは誰もが知っていること。その三河殿をさしおいて、私に功名ありとの仰せは片腹痛し」
てこでも加増を固辞して受けない一鉄に、さすがの信長も苦笑するほかなかったという。
現代においても自分の主義主張を曲げない者を「一徹者」というが、この「一徹」とは実は稲葉一鉄のこのエピソードに由来するものなのである。
【Photo: 岐阜県揖斐川町の月桂院にある一鉄の墓所】
by Masa
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