第1位 清水宗治(しみず むねはる)
この人物は通称長左衛門と呼ばれ、もとは備中国清水城主であった。彼の妻が同国高松城主・石川久孝の娘であったことから、久孝の没後に高松城主となる。
(写真は現在公園として整備された備中高松城跡)
彼は毛利氏の小早川隆景麾下に属す勇将として知られ、数々の戦功を挙げているのだが、その最期は哀れというか気の毒というか、しかし非常に美しいものであった。
彼が最期を迎えた1582年は、毛利家は織田家の中国方面担当司令官・羽柴秀吉と対峙中であった。秀吉は三木城・鳥取城を落とし、その勢いで宗治の籠もる高松城へと軍を進めた。毛利家も援軍を繰り出し、戦況は膠着状態となった。
秀吉は地形や季節を考え、軍師・黒田孝高の助言も取り入れて、いわゆる「水攻め」を行った。城の周りに土手を築いてぐるりと囲み、そこへ足守川の流れを変えて引き込んだ。もちろんその程度ではあまり影響はないのだが、運もあった。折しも集中豪雨に助けられ、ついに高松城は湖にぽつんと浮かぶ島のようになってしまった。城内にも水が入り込み、武器は水浸し、兵は屋根や木の枝にしがみついてしのぐ有様であった。これではどうしようもない。
そこで和睦の扱いとなった。毛利方の外交僧・安国寺恵瓊が奔走し、城兵の命と引き替えに宗治の切腹で事を収めることになったのだが、最初は毛利氏はこれには絶対反対であった。麾下とは言え、地侍の宗治に対して腹を切れとは面目上言えないのである。また宗治もそれに絶対従う必要もなかったが、彼はそれで城兵たちの命が助かるならと、潔くこれを受けた。
(写真は高松城本丸跡にある宗治辞世の句碑)
その瞬間、京の本能寺で信長がこの世から消えた(本能寺の変)。この知らせを受けた秀吉は、是が非でも早く決着をつけて京へ向かいたい。そこで、和睦条件を更にゆるめて早期切腹開城を迫った。もし、毛利方にこの報が伝わっていれば、歴史は変わっていたであろう。しかし事情を知らない宗治は翌朝切腹した。秀吉はこの直後「中国大返し」を敢行し、山崎に明智光秀を討って天下人への歩みを始めるが、それ以後はこの稿とは関係ないので省略する。
浮き世をば今こそ渡れもののふの 名を高松の苔に残して
私は宗治の最後に残したこの句が非常に好きである。彼は兄の月清とともに、両軍に見守られながら小船の上でその生涯を閉じた。
第2位 吉川経家(きっかわ つねいえ)
経家も清水宗治同様、気の毒な最期を遂げた武将である。彼は吉川経安の子で式部少輔(しきぶしょうゆう)を称する、石見国福光城主であった。彼が鳥取城主(正確には城代)になったのはとんでもない事件がきっかけであった。
当時の鳥取城主は山陰一の名族である山名豊国であった。しかし彼は秀吉の侵攻を受けて一旦は抵抗するが、支城を落とされて娘を人質に取られ、たまらず降伏してしまった。そこで自分の娘のためには我々皆を捨てるのかと重臣たちが怒り、内紛状態になった。そこでとんでもないことが起きた。
豊国が単身で逃げたのである。あきれた重臣たちは毛利に新たな城将を送るように懇願した。それで派遣されてきたのが経家であった。
(写真は現在の鳥取城跡)
秀吉との戦いは、ある意味で壮絶であった。合戦らしい合戦がないのである。ぐるりを大軍で取り囲まれ、一切の兵糧が尽きた。木の根やネズミはごちそうとなった。壁土を喰い、挙げ句の果てには死人の肉まで口にしたという生き地獄であった。これにはどうしようもなく、経家は自分の命と引き替えに城兵たちの助命をと秀吉に伝えた。秀吉は彼に腹を切らせるつもりなど無かった。豊国の重臣たちに切らせればそれで良かったのである。重臣たちもそれを経家に申し出たが、経家は頑として受け付けなかった。
「私は大将である。城主でなくても主家から信任されてやってきたものである。ゆえに腹を切るのは私一人で十分」
経家も栄養失調でやせ衰え、満足に動ける状態ではなかったが立派に切腹した。これには秀吉も深く感動したという。死に臨んで彼が家族に当てた遺書がある。彼のすがすがしさが良く表れているので紹介しよう。
「鳥取の事、夜昼二百日こらえました。兵糧も尽き果ててしまいましたが、私がみんなの命を助ける御役に立て、一門の名を上げることが出来ました。私は幸せだったと思います」
(写真は鳥取城跡に建つ吉川経家像)
せめてもう少し生きていて欲しかった将であった。
第3位 別所長治(べっしょ ながはる)
別所氏は東播(播磨国東部)八郡を領し、美嚢郡三木城を本拠とする名族で、地方的には強大な勢力であった。天正初期の一時は織田信長の麾下に属していたが、信長の所業に不安を感じ、天正六(1578)年織田に離反し毛利氏と款を通じた。
(写真は長治の居城・三木城本丸跡)
別所一族はなかなか粘り強く、さすがの秀吉も手を焼いた。戦いは膠着状態となり、結局落城させるのに足かけ三年という月日を要したのだが、その間に秀吉の片腕と言うべき存在の軍師・竹中半兵衛重治は陣中で病歿し、さらに摂津の荒木村重が信長から離れ、秀吉のもう一人のブレーンである黒田官兵衛孝高も、村重の手で有岡城(現・兵庫県伊丹市)中に捕らえられてしまった。
そこで秀吉は、神吉(かんき)城をはじめとする、三木城の支城を片っ端から落としていった。そしてついに三木城は裸城となり、秀吉軍に糧道を断たれてしまう。世に言ういわゆる「三木の干し殺し」の始まりである。
城中は地獄と化した。城兵は飢えのためまともには戦えず、座して死を待つくらいなら、と自殺的戦いが繰り返された。城内では上記鳥取城の戦いと同様に、兵士達は木の芽を食べ、松の荒皮を剥いで甘肌をなめた。犬・猫はもちろん、蛇や蛙など食べられる物は全て食べ尽くした。さすがの長治もこの惨状を見るに見かねて、秀吉に「私をはじめ別所一族の命と引き替えに、城兵の命は助けてもらえないか」と打診、承諾を取り弟友之ら一族とともに自害して果てた。時に天正八(1580)年正月十七日。以下はその時の辞世の句である。
(写真は本丸跡にある長治辞世の句碑)
長治「今はただ恨みもあらず諸人の いのちに代はるわが身と思へば」
友之「命をも惜しまざりけりあずさ弓 末の世までも名を思う身は」
長治妻「もろともに消え果つるこそ嬉しけれ おくれ先立つならいなる世を」
友之妻「たのもしや後の世までをつばさをば ならぶるほどの契りなりけり」
賀相妻「のちの世の道も迷はじ思ひ子を つれて出でぬる行く末の空」
この結果に味をしめたわけではないであろうが、この後秀吉は鳥取城・高松城と立て続けに兵糧攻め(高松城は水攻め)で落とし、いずれも城将は城兵の命と引き替えに切腹するという結末を迎えている。
by Masa
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