第1位 島津豊久(しまづ とよひさ)
この人物は島津四兄弟の末弟・家久の子で、義久や義弘の甥にあたり、島津家でも有数の猛将として知られていた。関ヶ原の戦いにおける「島津の前退」(敵中突破の退却行)は非常に有名だが、それが出来たのはこの豊久の奮戦があったからこそなのである。さて、彼の気性をよく表しているエピソードをひとつ紹介しよう。
関ヶ原の戦いにおいて行きがかり上やむなく西軍に属した島津義弘は、大垣での軍議の席上、夜襲を献策したが石田三成から「田舎戦法」と嘲笑われて採用されなかった。これを聞いた副将の豊久は伯父の義弘以上に腹を立てていた。
さて、戦いが開始され、次第に激戦となったが島津軍は動かない。なぜなら、軍議の時点で義弘は三成の能力を見限り、不戦の態度を決めていたからである。そんな島津軍の豊久の陣へ三成の伝令・八十島助左衛門が馬で駆け込んできた。彼は馬上から「はや潮時と存ずる。島津の方々、出陣なされい」と告げたところ、これを聞いた豊久は烈火のごとく激怒した。
「出陣を頼むのに馬上から怒鳴るとは何事か」と、持っていた鞭を馬めがけて投げつけたという。さらに豊久の家臣たちが八十島助左衛門を取り囲み、馬から引きずり降ろした上に地面に首を押さえつけてしめあげたという。彼は恐れをなしてほうほうのていで逃げ帰った。
戦いは西軍の敗北となり、義弘は玉砕を覚悟したが、豊久に「伯父上に死なれては島津家が立ちもさん」と強く説得され、敵中強行突破による帰国を決意して指物を豊久に手渡した。これを手にした豊久は勇躍敵軍の前に立ちふさがった。
前面の敵は「赤備え」で鳴る徳川四天王の一人・井伊直政。さらに福島正則・本多忠勝も加わってきた。東軍中の最強軍団3つを相手にしたのである。豊久は数少ない鉄砲隊を有効に使い、死力を尽くして奮戦した。ちなみにこの時に受けた傷がもとで、井伊直政は二年後に死んでいる。
【Photo: 激戦の地・烏頭坂に建つ豊久の碑(岐阜県上石津町)】
しかし多勢に無勢、豊久の最期の時が来た。全身に無数の矢を射立てられ、出血も激しく目も見えなくなったが、それでもまだ立っていた。彼が倒れ伏したときにはすでに息はなかった。見事な立ち往生である。そして、彼の死体は東軍の兵たちになますのように切り刻まれたという。いかに彼の奮戦が素晴らしかったかの証拠であろう。彼と共に阿多盛淳もまた義弘の身代わりとなって討ち死にした。
豊久はきっと本望であったろう。実父家久亡き後、父のように慕っていた義弘の身代わりとなって果てることができたのだから。そして、島津家は減封されることもなく明治維新まで見事に残った。
第2位 鬼庭良直(おにわ よしなお)
鬼庭家は代々伊達家の重臣で、「おににわ」とも読む。また、「茂庭(もにわ)」とする資料も存在する。鬼庭氏の中で戦国期に活躍する武将として歴史に名を残す人物は、この良直と綱元である。綱元は伊達政宗の股肱の臣として、かの片倉小十郎景綱と同格の重臣である。
さて、良直であるが、彼の名が資料に見えるのは、1585年の蘆名・佐竹・畠山氏の連合軍との間に起きた「人取橋の戦い」においてであるが、しかしながらその戦いが彼の最期となる戦いであった。
戦いは最初のうちは互角であったが、いかんせん敵連合軍は三万余の大軍である。対する伊達軍は八千。これではよほどのことがない限り勝負にはならない。勇将伊達成実や片倉景綱の奮戦でかろうじて戦況は一進一退であったが、やはり軍勢の差は大きくじりじりと追いつめられ、次第に苦戦の様相を呈してきた。
その時、殿(しんがり)を務めていた良直は、自分が敵をくい止める間に政宗を安全に退却させようと、わずか百騎に満たない軍勢で玉砕覚悟の突撃を敢行したのである。時に良直七十三歳。当時としては長生である。もう人生に何の未練もなかったのかもしれない。
乱戦の中、この老将は奮闘した。しかし全身に矢を射立てられ、深手浅手の刀槍傷を負い、ついに気力体力ともに尽き果てて討ち死にした。
良直の奮戦により政宗は危ないところを脱し、安全な場所まで退却することが出来た。しかし、敵は数倍の大軍。勝利はやはりおぼつかない情勢である。しかしここで思わぬハプニングが起きた。
なんと、敵軍が退却を始めたのである。これには諸説があり、佐竹氏の留守を里見氏が狙って出陣したとか、仲間割れによって佐竹義政が殺され、動揺した連合軍がそれぞれ自領に引き上げたとか言われているが、ここではそのようなことはどうでもよい。とにかく政宗は危地を脱した。
戦いは引き分けとされているようであるが、私はそうは思わない。これは明らかに政宗の負けであり、良直の奮戦がなければ政宗自身がこの戦いで落命していたろうと思われるのである。
老将・良直が見事に咲かせた死に花であった。生き延びた政宗は、この後仙台六十二万石の太守となる。
第3位 毛受家照(めんじゅ いえてる)
毛受家照は名を勝照とも言い、通称勝助と呼ばれる、織田家筆頭重臣柴田勝家の近侍である。勝家の信任も厚く、ひとかどの武将であったことは疑いない。彼の最後の舞台は賤ヶ岳の合戦においてであった。
賤ヶ岳の合戦は秀吉と勝家のいわば「天下分け目」の戦いで、勝家配下の猛将・佐久間盛政の軽率な判断さえなければ、勝敗はどうなっていたかわからない。が、とにかく勝家は敗れた。
神業に近い速さで大垣から木之本に引き返してきた秀吉に面食らい、柴田軍の先鋒・佐久間盛政はあわてて退却したが時すでに遅しであった。味方であるはずの前田利家にも見限られ(利家はこの状況下で戦線を離脱した)、福島市松(正則)や加藤虎之助(清正)ら、秀吉の小姓たちにさんざんに追いまくられた末に柴田軍は壊滅状態となり、盛政も捕らえられた。
このときであった。勝家の本陣にいた家照は、勝家から金の御幣(勝家の馬印)を乞い受け、身代わりとなって兄の茂左衛門とともにその場に残った。従う者はわずか数百しかいない。しかし少人数故に身軽に行動できる利点がある。家照は空き砦に籠もったり、林の中を駆けめぐったりして奮戦し、とにかく時間を稼いだ。
追いついた秀吉はそれが影武者であることを看破したが、立てている馬印は紛れもなく本物である以上、これを無視するわけにはいかなかった。
思う存分秀吉勢を引きつけ、力戦しながら十分時間を稼いだが、見渡せばすでに周りにはもう兄茂左衛門以外の兵は残っていなかった。さすがに戦い疲れた二人は「これだけ敵を引きつけておけばもうよかろう」と、残っていたわずかな酒を酌み交わした後、従容として自刃したという。
【Photo: 戦歿地の「毛受の森」にある兄弟の墓(滋賀県余呉町)】
勝家は無事に居城・北之庄に帰ることが出来たが、もはや秀吉勢には抗しきれず、愛妻・お市の方とともに自刃する。しかし、彼が居城で自刃して武将の意地を通せたのも、家照の身代わりがあったからこそではないかと思えるのである。
by Masa
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