身分の転落を味わった武将 TOP3

この時代には過失や敗戦などにより身分を落とされた武将も数多く存在しました。ここでは、特にその境遇の落差が顕著だった武将3人を選んで紹介します。


第1位 長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)

 盛親は長宗我部元親の四男で、幼少時より英邁の資質ありとして知られていた。父元親と共に秀吉の九州島津攻めに加わっていた長兄の信親が1586年に豊後戸次川の合戦にて戦死したため、朝鮮の役後の1599年に元親から家督を相続、土佐国主となった。
 彼はそれ以前にも小田原北条攻めや朝鮮の役の際に父と共に一軍を率いて戦功を立てていたが、何より特筆すべきは長宗我部家法を制定したことであろう。
 これはいわゆる「長宗我部元親百箇条」といわれるものであるが、その名こそ「元親」と冠されてはあるが、これは盛親と元親の共同で制定したものである。この家法は家中の武士の統制のみならず、その対象は農民や商工一般にいたるまで広く及んでいる優れたものである。

 さて、関ヶ原の戦いにおいて、盛親は西軍に属し大軍を率いて南宮山に陣取ったが、西軍の敗色劣勢を見て軍を動かすことのないまま帰国している。決して凡将ではない、いや勇将と言っても差し支えない彼がもし先頭を切って東軍に攻めかかっていたならば、後の歴史は大きく変わっていたことだろう。それで帰国した彼は何を思ったか、家督相続時に父から疑われ幽閉されていた兄の津野親忠を殺害してしまうのである。これがまずかった。

 井伊直政を通じて家康に詫びを入れるが、兄を殺したことが家康の怒りを買い、領国は没収。ここから彼の長い浪人生活が始まる。
 家の再興を願い浪人暮らしに耐え、十年余りが過ぎたが、彼はなんと京で寺子屋の師匠をしていたのである。元土佐二十二万石の国主が寺子屋の師匠。さぞ屈辱を味わったことであろう。しかし彼はあきらめず、じっと時節到来を待った。そして、大坂城の秀頼から入城依頼が届く。
 旧臣の土佐一領具足たちも少しずつ彼のもとに集まり、大坂入城時には千人を超す軍勢に膨れ上がったという。大坂方では毛利勝永・真田幸村とともに三人衆と呼ばれるほどの位置に置かれた。

 しかし悲しいかな、もう彼に武運は残っていなかった。冬の陣で多少の奮戦はしたものの夏の陣で敗れ戦線を離脱、潜伏先の山城八幡で捕らえられ、京で斬首された。気の毒にも運が無かったとしか言いようのない後半生で、時に盛親四十一歳。せめてもう少し生きながらえて欲しかった武将の最期であった。



第2位 後藤基次(ごとう もとつぐ)

 基次と書くより通称の「又兵衛」と書いた方がよくわかるであろう。彼は黒田家の家臣で、官兵衛孝高に特に可愛がられ、嫡男の長政と共に成長した。しかし、これが彼の後の人生に大きな影響を与えることになる。
 彼は黒田家の家督を継いだ長政の重臣に位置していたが、ことあるごとに意見が対立、やがて主君を見限って自ら浪人する。これには孝高に長政と同格扱いされるほど可愛がられたため、長政をやや軽んじていたきらいがある。

 猛将の誉れ高い彼を召しかかえんものと、細川忠興や福島正則らが名乗りを上げるが、又兵衛は法外な禄をふっかけ、いずれへも仕官しなかった。これには長政が又兵衛を「奉公構い」(浪人した者を他家で仕官できないようにする処置)にしたことも影響があろう。とにかく又兵衛は京に流れ着き、なんと当時の言葉で言う乞食(こつじき)にまで身を落とす。ただ彼は豪放磊落な性格だったらしく、こういった生活を一向に気にしなかった。また、いったい資金はどこから調達していたのかわからないが、茶など楽しんでいたらしい。そうこうするうちに大坂の陣が起こる。

 大坂方に乞われて入城したが、彼の指揮下に入る者が六千人もいたという。やはりこういうタイプの武将は人気があるらしいが、冬の陣ではさしたる活躍はしていない、というより出陣していない。彼が華々しく戦うのは翌年の夏の陣であるが、それが彼の最期となる。

景福寺にある又兵衛と妻子の墓 【Photo:鳥取市の景福寺にある又兵衛と妻子の墓】
 又兵衛は先鋒奇襲隊で、真田幸村や毛利勝永らとともに出陣したが、不運にも濃霧のため後続部隊が遅れて連絡が取れず、道明寺(現大阪府藤井寺市)まで出た。しかし、この時もう敵の先鋒がそこに到着していたのである。
 戦いが始まると、又兵衛は奮戦した。二千八百の寡兵ながら敵将奥田忠次を討ち取り、松倉重政を後退させ、東軍をあわてさせた。しかし、寡兵の悲しさ、そこまでであった。伊達政宗の大軍に押され、奮戦空しく鉄砲隊の一斉射撃の前にその波乱に満ちた五十一年の生涯の幕を閉じた。最期の言葉とされるセリフがまた彼らしい。

 「首を渡すなっ!」




第3位 足利義昭(あしかが よしあき)

 彼が室町幕府15代将軍であることは広く知られているが、その晩年は意外と知られていないようなので取り上げてみた。
 義昭は13代将軍義輝暗殺事件の際には興福寺の僧・覚慶として世にあったが、三好方に命を狙われる。しかし和田惟政や細川藤孝らの機転と助力で危地を切り抜けて還俗、信長に擁立されて将軍となった。

 最初の頃は良かったのだが次第に信長と対立、やがて反信長派の旗頭となるのである。彼は元々策謀好きであったらしく、全国の有力大名に義昭への加担を呼びかける文書を乱発し、武田氏や朝倉氏・本願寺らと結んで立ち上がった。しかし結局は信長に敗れ、元亀四年四月(七月二十八日に天正に改元)には一旦和議を結ぶ。懲りない義昭は二ヶ月後に再挙兵するが、これまた敗れてついには京を追い出されるのである。

鞆城の本丸跡
【Photo:義昭の滞在した備後鞆城本丸跡(福山市)】
 こののち義昭は紀州を経て毛利家の備後鞆城へと移る。天正四年五月、毛利氏が義昭擁立を決め本願寺と結び、信長と二度大阪湾木津川河口で対決するが、緒戦こそ凱歌を上げ得たものの、二度目の木津川海戦では大敗した。この(第二次)木津川海戦の際に織田方で活躍したのが、かの船大将・九鬼嘉隆の乗る鉄甲船である。
 さて天正十年六月二日、彼にとって最大の「不運」が訪れた。相手の信長が死んだのである。

 普通ならば手放しで喜ぶべき事であろうが、この時は情勢がそうではなかった。毛利家は秀吉と交戦対峙中で上洛の余裕など更々なく、その秀吉がいわゆる「中国大返し」によって、あっという間に明智光秀を討ち滅ぼしたからである。これにより秀吉は短期間に着々とその足場を固め、賤ヶ岳の勝利の後はもはや天下人同然となった。

 毛利領の備後・鞆の浦にいた義昭はどんな気持ちで秀吉を見ていたのであろうか。義昭は1587年、秀吉の要請により京へ戻り、信長に反抗して追い出された槇島城を宛われて一万石を給された。
 すなわち、義昭は晩年は秀吉傘下の一武将として存在し、十年後に大坂でその地位のまま世を終えている。史実では室町幕府の滅亡は1573年となっているが、こう見てくるといつ幕府が滅亡したのかどうも今ひとつはっきりしないのだが・・・。
by Masa