「鬼」と恐れられた武将 TOP3

戦国時代にはその武勇により、敵から「鬼」と恐れられた武将が数多く存在しました。ここでは、それらの「鬼武将」たちの中から私の独断により3人を選んで紹介します。


第1位 戸次鑑連(べつき あきつら)・・・「鬼道雪」

 戸次鑑連と書くよりも「立花道雪」と書いたほうが数倍よく知られているであろう。そう、豊後大友家にこの人ありと恐れられた知勇兼備の猛将、立花道雪その人である。

 彼は1513年、大友家の庶流・戸次親家の次男として生まれた。初陣は豊前に手を伸ばしてきた中国地方の雄・大内義隆との戦いである。当時孫次郎と名乗っていた鑑連は、弱冠十三歳でありながら病床の父の名代として三千の兵を率いて出陣した。馬岳(うまがたけ)城に籠城した敵軍は五千、しかし寡兵を物ともせず猛攻を重ね、あわてた義隆が「ほぼ降伏に近い」和睦を申し出、事実上の勝利を得たのである。これにより彼の名は一躍有名になった。
 これより彼は生涯三十七度の戦いに全て勝ち、彼の輿に乗って号令する姿は「鬼道雪」と呼ばれ大いに恐れられたのであるが、なぜ馬に乗らず輿に乗ったのであろうか。これには有名なエピソードがある。

 彼が何歳の時かは特定できないが、まだ若い頃、とある夏の日に急に降り出した雨を避けるため大樹の下で雨宿りをしていた時、突然稲妻が彼を襲った。つまりは落雷に遭ったのであるが、この時彼はとっさに愛刀千鳥を抜き、稲妻の中にいた雷神を一刀両断に斬り伏せたという。このため体に後遺症は残ったものの、奇跡的に一命はとりとめたと伝えられている。
 これはもちろん言い伝えであるが、鑑連が落雷により生涯下半身不随の身となったことは広く知られている。彼は以後この刀を「雷切(らいきり)」と名付け、生涯肌身離さず所持したという。また、家臣たちは彼を雷神の生まれ変わりとして信じたため、戦えば必ず勝つとの信念が生まれ、ためにその兵は家中でもっとも強かった。

 また彼は「大友家三家老」の一人に数えられる重臣で、主君の義鎮(宗麟)が酒色に溺れ、家臣の諫言にも耳を貸さなくなったときに、なんと自分も昼間から美女を侍らせ酒宴を催すという挙に出た。もちろんこれは擬態である。これを噂に聞き興味本位で彼のもとを訪れた義鎮に、鑑連は姿勢を正し、涙をこぼして諫言したという。義鎮も深く反省したので、一時は立ち直ったかに見えた大友家も耳川の敗戦を機に衰退の一途を辿ることになる。

梅岳寺
【Photo:道雪の眠る梅岳寺(福岡県新宮町)】
 下半身不随のハンデを背負いながら「鬼道雪」と呼ばれ、猛将の名をほしいままにして活躍した彼も病には勝てず、筑後北野の陣中で七十三歳の生涯を閉じる。しかし彼には跡継ぎとなる凛々しい養子がいた。
 道雪とともに大友家中の双璧といわれ、後に岩屋城で壮絶な玉砕を遂げた高橋紹運に無理を言ってもらい受けた統虎と名乗るその子こそ、後に秀吉や家康から絶大なる信頼を得た勇将・立花宗茂である。




第2位 佐竹義重(さたけ よししげ)・・・「鬼義重」

 佐竹氏は源義家の弟・新羅三郎義光の孫である昌義を祖とする常陸国の豪族で、1133年に馬坂城を本拠としたことに始まる。

 義重は佐竹義昭の長男として生まれ、1561年に家督を継いだ。この時期佐竹氏にとってはまさに存亡の時であった。西からはじわじわと小田原北条氏(氏康・氏政)が勢力を拡大しつつあり、北からは伊達氏の南下があった。当時太田城に本拠を置いていた義重は、西は宇都宮氏・佐野氏らを支援して北条氏の進出をくい止め、北は蘆名氏・岩城氏と同盟し伊達氏の進出をこれまたくい止めたのである。義重は名族意識が強かったかどうかは解らないが、どうも北条嫌いだったらしく、徹底して争っている。

 めまぐるしく変わる北関東の情勢に、義重は知勇両面で活躍した。合戦と外交に明け暮れた日々だったが、攻めればまさに猛将と呼ぶにふさわしく、その間を縫っての外交の駆け引きの見事さはまさに知将そのものであった。こうやって徐々に勢力を拡大し、1586年に家督を嫡子義宣に譲り引退したものの、実権は握ったままであった。

 彼の仕上げは秀吉の北条攻めと同時に行われた、江戸重通の籠もる水戸城攻略である。難なくこれを落として重通を下総結城氏のもとへ敗走させ、義宣をこの城に据えた。また、常陸国に根強く残っていた反勢力の大掾(だいじょう)一族を一掃し、ついに領国を完全掌握した。佐竹義宣を秀吉政権下で五十四万五千石余の大大名たらしめたのは、この義重の功に負うところが大きい。さすがに「鬼義重」と呼ばれるだけのことはあった。しかし関ヶ原の際には形式的には東軍に属したものの、密かに石田三成と通じていたことを家康に察知され、戦後出羽秋田へ減封移転されることになる。

 余談になるが、義重に協力して多くの合戦にその豪傑ぶりを発揮して活躍した常陸国真壁城主・真壁氏幹(暗夜軒)も「鬼真壁」と呼ばれ恐れられた人物であった。




第3位 森 長可(もり ながよし)・・・「鬼武蔵」

 長可は1558年、信長の重臣・森可成の次男として生まれた。長一ともいう美濃金山城主。弟には本能寺で信長とともに散った蘭丸(長定)や津山藩主となった忠政がいる。
 当時勝蔵と名乗っていた彼は、まず伊勢長島一揆攻めに功を顕わし、武田勝頼との戦いにおける高遠攻めの際には信忠の下で猛烈果敢な戦い振りを示した。このとき彼は武田方の一揆勢に包囲された稲葉彦六という武将の救援に駆けつけ、老幼男女の区別なく二千五百近い首を刎ねている。またずっと後の話になるが、本能寺の変後に領内で一揆が起こったとき、これを猛烈に攻め立てて鎮圧したことから以後「鬼武蔵」と呼ばれるようになったらしい。

 さらに彼は信長が設置した瀬多の関所を通過した際、関守から馬を下りるよう命令されたが、その態度が横柄かつ高飛車だったため応ぜず、かえって追いすがる関守の首を一刀のもとに刎ねたという。そして急ぎ信長のもとに行き事の顛末を告げたところ、信長は笑ってこれを許し、「昔、五条の橋で人を討ったのは弁慶である。おまえも今から武蔵と改名せよ」と言ったという。この後ほどなく彼は侍従に任官され、以後武蔵守長可を名乗ることになる。

 このように一見粗暴で奇人のような振る舞いをした長可も、母親や子に対しては非常に暖かみのある態度で接している。これは親兄弟をことごとく戦で失ったからであろう。父可成は近江宇佐山城で浅井・朝倉連合軍の大軍に攻められ戦死、兄可隆も朝倉攻めの際に戦死。さらに十年後には本能寺の変にて蘭丸・力丸・坊丸三兄弟(いずれも弟)が信長に殉じた。このとき悲しみのあまり自害しようとした母親を、涙を流しながら説得している。

梅岳寺
【Photo:長久手古戦場公園(愛知県長久手町)】
 彼は小牧長久手の戦いにおいて秀吉方に属し、「中入れ」の奇策を進言した池田恒興とともに先鋒を務めたが、後続の総大将秀次が奇策を見破った家康に攻められて退却したため孤立、徳川勢の猛攻を受け本田重次勢との激戦の末、鉄砲で真額を撃ち抜かれて壮絶な戦死を遂げた。
 森武蔵守長可二十七歳。猛将「鬼武蔵」の名にふさわしい壮絶な、しかしあまりにも気の毒で早すぎる最期であった。
by Masa