海を舞台に活躍した武将 TOP3

戦国時代には幾多の合戦が起こりましたが、もちろん陸地だけでなく、海でも合戦は起こりました。ここでは、海を舞台に活躍した武将たちの中から、私の独断により3人を選んで紹介します。


第1位 九鬼嘉隆(くき よしたか)

 織田信長の下、石山本願寺との第二次木津川海戦において大鉄甲船を操り、毛利水軍を粉砕した海将・九鬼義隆。さて、その生涯は・・・。

 彼は1543年、志摩国田城(たしろ)城主九鬼定隆の次男として生まれた。兄浄隆のあとを継いだ甥澄隆とともに志摩七島衆と戦うが敗れ、朝熊(あさま)山へ逃れる。このとき信長に通じ、その助けを借りて三年後に志摩の海上権を握っていた「志摩地頭十三人衆」と戦ってこれを制した。
 これより彼は信長麾下の海将として長島一揆討滅戦の際に安宅船十四隻を率いて活躍、また前述の石山本願寺との第二次木津川海戦において毛利水軍をも粉砕する活躍を見せた。これらの功により、伊勢志摩両国内に三万五千石を領する大名となり、鳥羽にその本拠を据える。
 信長没後は秀吉に仕え、九州征伐や小田原攻め、文禄の役に海軍の将として活躍したが、慶長の役の際に渡鮮軍の人選から外れたことを機に隠退、家督を子の守隆に譲った。しかし彼の悲劇はこれから始まる。

 秀吉の恩に報いるため関ヶ原の際は西軍に加担、東軍についた守隆の留守中に城を奪い、ここに父子間での戦いが起こる。しかし嘉隆の思惑とは裏腹に西軍があっという間に敗れたため、嘉隆は城を脱出し自国内に潜伏した。

九鬼一族の墓  守隆は父を捕らえる気にはならず、福島正則を通じて家康に父の助命を嘆願、家康も二条城で彼を謁見してこれを許した上で、加増の沙汰もあった。喜んだ守隆は、これを報せるべく急使を父の元へと飛ばした。ところが・・・。
 これとほんのわずかの差で、嘉隆は九鬼家の先を案じた家臣・豊田五郎右衛門が独断で発した使者の言に従い、遺書を残して自刃してしまっていたのである。急使は伊勢国明星でこの嘉隆の首と出会い、驚いた守隆は豊田を斬首したものの、一足違いで間に合わなかった。
【Photo:常安寺にある九鬼一族の墓(鳥羽市)】

 嘉隆五十九歳。九鬼氏はこの後守隆が水軍を引き継いだが、1633年摂津三田ならびに丹波綾部へ転封される。ここに九鬼氏は陸へ上がり、長く親しんできた海との別れを告げた。




第2位 村上武吉(むらかみ たけよし)

能島城跡  村上氏は南北朝時代から瀬戸内海を根城に活動した海賊衆で、戦国期には「村上三島(みしま)水軍」と呼ばれた。主な収入源は瀬戸内海を航行する船から徴収する「帆別(ほべち)銭」と呼ばれる通行料兼警護料であった。この三島とは瀬戸内海西部の備後〜伊予間に浮かぶ能島・因島・来島の総称で、戦国期の因島には村上吉充、来島には来島通康・通総がおり、能島村上氏である武吉は「能島武吉」とも呼ばれていた。
【Photo:能島城跡と周囲の急流(愛媛県今治市)】

 彼の名を天下に知らしめた戦いが、厳島の合戦と第一次木津川海戦である。厳島の合戦は、陶晴賢二万の大軍を毛利元就が三千五百の小勢で破ったことで知られているが、これも武吉が三百艘の船団を繰り出して海上権を握り、陶軍の退路を断ったことによるところが大きい。そして木津川海戦では、毛利家が援助する石山本願寺に兵糧を運び込むために水軍の中核として参戦、焙烙(ほうろく)と呼ばれる火器を駆使して織田水軍を木っ端みじんに撃破したのである。武吉の船の操り方はまるで手足のごとく、織田方の将とは大人と子供の差があったと言われる。
 干満の差が激しく潮流の速い瀬戸内海で鍛えられた操船術は、おそらく当時日本一だったのではないか。しかし、その村上水軍も、鉄甲で隙間なく武装した第二次木津川海戦における九鬼嘉隆の大安宅船の前にはなすすべもなく敗れた。

 時代は移り、世は秀吉の天下となる。そして程なく秀吉が発した「海賊禁止令」に反して帆別銭を徴収したとして、武吉は切腹を命ぜられかけたが、小早川隆景の取りなしで免れる。しかし、武吉を好んでいなかった秀吉から次々と所払いをくらい、長門国大津に隠棲する。そして、この地で「村上舟戦要法」の執筆に取りかかる。彼は秀吉没後に旧勢力圏の安芸竹原に戻ったが、程なく関ヶ原の合戦で息子の元吉を失う。失意の武吉はもう懐かしい能島に戻ることはなく、程なく七十三歳の生涯を閉じた。

 しかしこの「村上舟戦要法」は、これより350年を経たあの日本海海戦に参考にされたといわれるほど完成された内容であったという。



第3位 松浦隆信(まつら たかのぶ)

 松浦氏は源久を祖とする嵯峨源氏の流れを汲む名族で、鎌倉時代には肥前国北西部沿岸の地頭であった。松浦は現在では「まつうら」と読むが、本来は「まつら」と読むのが正しいとされる。
 隆信は1529年に生まれ、この肥前松浦氏第25代の当主となる。当時この一帯には土着の豪族たちがそれぞれに勢力を有しており、いわゆる「松浦党」と呼ばれる武士団を形成していたが、いわば寄せ集めの集団的なところがあり、中心となる人物が存在しなかった。そこへこの隆信が登場し、徐々に勢力を拡大してこれらのリーダー的存在となり、やがては西肥前の戦国大名と化したのである。

 ところで、なぜ隆信が急成長できたかだが、それは南蛮との密貿易であった。彼は倭寇の主領王直を平戸に住まわせ、小規模ながらも密貿易の利益を得ていたのである。
 さらにキリスト教の布教を許可、翌1550年に初めてポルトガル船が平戸に来航して以来、ポルトガルとの貿易に力を入れ、隆信の経済力は大きくなっていった。

 しかし、キリスト教徒の力が大きくなるにつれ仏教徒との軋轢も生じ、また十四人のポルトガル商人が隆信の家臣に殺されるという「宮ノ前騒動」も起きた。このとき彼は抗議に対して誠意をこめた対応をしなかったということでポルトガル側が怒り、以後船は大村氏領横瀬浦へと回った。しかしここも当主大村純忠に反抗する勢力により港が焼かれたため、隆信の申し入れもありもう一度平戸へ来る。が、その後程なく入港先は再び大村領福田港へと変わる。

 これに怒った隆信は1565年、福田港に停泊中のポルトガル船を攻撃したが失敗、以後二度と船は平戸へ来ることはなくなった。

 海に生きた男も、ポルトガル貿易の衰退に伴ってその力を失い、1568年家督を子の鎮信に譲って隠居した。
by Masa