天寿を全うした長寿武将 TOP3

戦国時代には、若くして戦場で散ったり、また病死した武将も数多くいました。ここでは、時代の荒波をくぐり抜けて活躍、長寿を保って天寿を全うした武将たちの中から、私の独断により3人を選んで紹介します。


第1位 北条長綱(ほうじょう ながつな) 享年97歳

 北条長綱というより北条幻庵と呼んだ方がおわかりいただけるであろう。早雲の末子で、小田原北条氏4代に仕えた人物である。
 彼は1493年、北条早雲の三男として生まれた。当時早雲はまだ小田原城を奪取してはおらず、伊豆韮山城を本拠としていたことから、長綱もここで生まれたものと思われる。長兄は二代氏綱、次兄は駿河の葛山備後守の養子となって今川氏親に仕えた氏時である。
 長綱はややもすると吏僚タイプに見られがちだが、決してそうではなく、馬術の達人としても知られ、さらに弓術の腕は養由基(古代中国・楚の人で射術の名人)にも劣らずと称されたという。また非常に手先も器用で、彼の作った鞍は「幻庵作のくら」といって重宝された。その上に彼は風流人としても名高く、つまり諸芸に通じた万能武将だったのである。

 その彼にも時代の荒波は押し寄せた。永禄十二(1569)年十二月、武田信玄との蒲原城の戦いで、嫡子新三郎綱重と、まだ幼い次子少将を一度に失ったのである。長綱の嘆きは深く、これを気遣った当主氏康は七男の氏秀を養子にやり、長綱は彼に家督を譲って隠居、幻庵を称した。
 しかしこの氏秀も程なく上杉謙信の養子となり越後へ行き景虎と改名する。天正六年に家督を景勝と争い(御館の乱)翌年敗死した景虎は、長綱の養子だったのである。

 そんな長綱のエピソードを一つ。ある日、彼が徳斎(徳斎は長綱の正体を知らない)という町人と碁を打った。勝負所を迎えて長綱が妙手を打ったところ、夢中になって興じていた徳斎は盤面に向かい、「打ったか、小僧は(この石は)どこの小僧だ(どこにつながる石かな)」とつぶやいた。長綱は面白がって「だれの小僧とおっしゃるが、私は北条早雲のせがれです」と応じたところ、我に返った徳斎は肝を冷やして逃げ帰ってしまった。長綱はすまなく思い、その後彼を再三呼んだのだが、ついにやって来なかったという。

 彼は天正十七(1589)年十一月一日、97歳で大往生を遂げた。当時の寿命から見ると、驚異的な長寿である。この軍政・外交・文化すべてにわたって北条家を支えてきた老将は、悲しいことも多かったろうが、家の滅亡を見ずに逝ったという点では幸せであったかもしれない。

 北条家の滅亡は天正十八年七月。幻庵長綱の死のわずか8ヶ月後のことであった。




第2位 龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね) 享年93歳

 龍造寺氏中興の祖と言われる家兼は、享徳三(1454)年、肥前龍造寺氏第十四代康家の四男として生まれ、水ヶ江龍造寺氏の祖となった。

 彼が歴史に颯爽と登場してくるのは、享禄三(1530)年のことである。三年前の大永七(1527)年のこと、大内義興は筑紫尚門と朝日頼貫の讒言で少弐氏を滅ぼそうと考え、この年重臣の杉興運に一万余騎を与え、肥前に乱入させた。
 このとき、少弐氏の被官であった龍造寺家兼は奮戦して一進一退の戦いを繰り広げていたが、神埼郡田伝(田手畷)で大内方主力と激突、敗色が濃くなったとき、得体の知れない赤装束の赤熊(しゃぐま=赤染めの冠り物をつけた)武者百騎ばかりの奇妙な一団が突如出現した。
 彼らは奇声をあげて大内勢を切り崩したため、家兼はここぞとばかり自らも老体に鞭打って敵中へ突入して奮戦、ついに筑紫尚門や朝日頼貫らを討ち八百あまりの首級を得る大勝を収めた。家兼は帰陣後この赤熊武者を呼んで聞いたところ、彼らは本庄村の牢人鍋島平右衛門尉清久父子といい、武功によって領地を得たいものだと思っていたところ、この戦いがあったので一族で参陣したとのことであった。家兼はいたく感じ入り、清久の二男清房に嫡子家純の娘(華渓)を娶らせ一族扱いとし、引出物として本庄の地八十町を与えた。なお、この夫妻の間に出来た子が、後の名将鍋島直茂である。

 さて天文十三(1544)冬、彼の人生最大の危機が訪れる。龍造寺氏の台頭を快く思わない少弐氏の家臣馬場頼周が謀略をめぐらし、西肥前の地侍衆にも通じた上で主君冬尚に讒言して龍造寺氏を討とうとした。その計画は、西肥前の地侍たちが蜂起したところを龍造寺氏に討伐に向かわせて力を弱らせ、その上で一気に本城を落とすというものであった。
 そうとは知らない家兼は冬尚の命により出陣、11月には上松浦で龍造寺伯耆入道剛雲らが、翌年1月には藤津郡で龍造寺右京亮らが戦死、水ヶ江(佐嘉)城は二万の大軍に囲まれた。馬場頼周は家兼の筑後隠居と謝罪を迫り、やむなく応じた家兼は一門衆を冬尚の元に向かわせるが、これこそ頼周の謀略で、龍造寺家一門の嫡子が一挙に六人も命を奪われたのである。佐嘉城へは小田政光が城代として入り、家兼は筑後一ツ木に追われ浪人となった。

 しかし天は家兼を見捨てなかった。復帰の機を窺ううち、程なくこれも恨み骨髄に達していた鍋島清久父子からの迎えがあり、川副庄無量寺で再挙の旗を揚げた。ぞくぞくと兵も馳せ参じ、頃は良しと家兼は佐嘉城を急襲、みごと奪回に成功したのである。あとは破竹の進撃で馬場父子を追い、ついに子の政員を川上川畔で、頼周を川上山で討ち取った。頼周は進退に窮し、川上山中の寺の境内にある鬼塚に隠れていたところを、加茂弾正という者に見つけられ首を取られたという。

 翌年、ついに家兼の寿命も尽きた。老臣たちは諸寺諸山で大法秘法を施し、幾多の名医を集めて治療したが日に日に体は衰え、ついに3月10日に息を引き取った。その遺言に曰く、

「(前略)慶法師の兄中納言僧を時をはかり還俗させよ。彼の人となりは大きなる器物有って、いかにも家を興すべき者なれば、必ず、老功の面々計ひ給え」(出典『肥陽軍記』)

 遺言中の「中納言僧」とは、当時宝琳院にて円月と称し、還俗後に「肥前の熊」の異名をとった龍造寺隆信その人である。



第3位 真田信之(さなだ のぶゆき) 享年93歳

 信之は1566年に信濃上田城主真田昌幸の長男として生まれ、はじめは源三郎信幸といった。幸村(信繁)の兄である。以下、「信之」で書き進めることにする。
 信之が武将として登場するのは、天正十三年の家康による「上田攻め」からであろうか。このとき信之は父昌幸の指図で砥石城から出陣し、父共々上田城下や神川畔で散々徳川軍を打ち破っているが、彼が破ったのは徳川方でも勇将として知られ、のち関ヶ原の際に伏見城で壮絶な最期を遂げる鳥居元忠である。

 しかし時は移り、1587(天正十五)年3月、昌幸はついに小笠原貞慶とともに駿府の家康に謁しその麾下となる。ここに信之は家康への人質のようなものとなり、やがて1589(天正十七)年2月13日から岡崎城に出仕することになる。これが彼の人生を変えたと言っても良い。
 家康が稀有の器量人であることを知った信之と、信之の非凡な才を認めた家康。家康の意向により、信之は家康の養女として猛将本多平八郎忠勝の娘を正室に迎える。これより徳川家に忠勤を励んだ信之は二人の男子にも恵まれ、やがて運命の時を迎える。

 その時とは1600(慶長五)年7月21日、世に言う「犬伏の別れ」である。上杉景勝討伐へ向かった家康に従い、昌幸・信之・幸村は下野まで行軍してきたが、その昌幸のもとに石田三成からの書状が届く。昌幸は至急信之にも連絡し、犬伏で幸村も交えて三者会議を開いた。
 信之は切々と徳川家の優位の動かぬ事を訴え、このまま家康に加担することを強く勧めたようだ。しかし、昌幸と幸村は石田方に身を投じた。この「家族会議」の内容には諸説あり、色々な見方があるが、ここでは触れない。そして、歴史の示す通り徳川方が勝った。

 さて、戦後昌幸・幸村父子の処断が下された。むろん死罪である。信之は自分の功に代え助命を嘆願したがそう簡単に許可は下りない。しかし信之をかばって心強い助っ人が現れた。
 その武将に諸説ある。池波正太郎氏はその名著『真田太平記』の中でこの役を本多忠勝に設定しているが、これは一つのクライマックスとも言うべき名場面なのでご紹介しよう。場面は信之と忠勝が家康に対し昌幸父子の助命を懸命に嘆願したが、はねつけられた直後である。

「殿は、この忠勝を敵にまわしても、真田父子の首がほしいとおおせある」
「そのほうを、敵じゃと・・・」
「いかにも」
「な、何と申す」
「かくなるからには、それがし、伊豆守殿と共に沼田城に立てこもり、殿を相手に戦つかまつる」

 これが「常山紀談」だと、その武将は榊原康政と井伊直政の設定で、

「仰せの趣申べき詞なし。かくあらんと存、父を諫めしかども、用ひざれば力に及び候はず。只一つ志す所の候。安房守を誅せられんより先に、まづかく申す伊豆守に切腹を仰出され候かし。 御敵の子なれば左あるべきと世の人も存べし。必父在世の中に伊豆守を誅せられよと云も終らぬに、康政、 心得て候。房州御赦免の事は康政が申上げて事よくせん。むかしの義朝には大に異なる豆州かなといひて其旨を申せしかば、東照宮・台徳院殿も聞召入られて、真田父子ゆるされしといへり」

 話の真偽はともあれ、信之自身が徳川方の諸将にいかに信用されていたかがわかる。これが信之の真骨頂であろう。

長国寺の信之霊屋 【Photo:長国寺にある信之の霊屋(長野市)】
 信之はこの後も忠勤を励み、上田から松代へと移封される。そして善政を敷き、隠居後に「真田騒動」と呼ばれる御家騒動が起きるが、老体に鞭打ってこれを上手く収めたところでついに寿命が尽きた。
 重臣鈴木右近忠重が彼に殉じた。この右近は、かつて父昌幸が見殺しにしたと言っても良い上野名胡桃(なぐるみ)城主・鈴木主水重則の嫡子で、常に信之の側にあって補佐し続けた名臣である。

 松代藩は、みごと明治維新まで残った。
by Masa