戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。 |
【Photo : 秀康の墓のある福井市・大安禅寺山門】 秀康が十四歳の時のこと。たぶんこれが彼の初陣ではないかと思われるが、養父豊臣秀吉の九州征伐に従い、その後軍にいた。前線では先鋒蒲生氏郷の活躍で厳石城を落とし、すこぶる意気軒昂であった。 この報せを聞いた秀康は、氏郷の華々しい活躍に比べて自分には戦功がないのを悔やみ、涙を流していたところ、横にいた佐々成政がこう言って慰めた。 「貴方はまだ若い。戦場で功を挙げるのは何も今日に限ったことではありません。憾(うら)みに思って気落ちなさいますな」 涙を収めた秀康はこう答えたという。 「今日のことは今日限りである。いつ再現されるというのか」 成政は一層感心してこれを秀吉に伝え、さてもよくよく徳川家康殿に似た御気性でございますなと褒めたところ、秀吉は 「やあ成政、それは違うぞ。秀康は俺の養子だから武勇も気性もこの秀吉に似ておるのだ」 と答えたという。 さらに高良山に布陣した秀康の陣立てを見た秀吉は、 「わずか百騎ばかりに過ぎない陣立てだが、その重厚なこと猛将勇士といえども付け入る隙はないであろう。昔源義経が八島の合戦にわずか八十人を率いて平家の大軍を打ち破った陣立てを彷彿とさせる。秀康は幼童にしてこの通り、あっぱれ傑出した良将である」 と褒めたという。 その2 秀吉の没後、石田三成と対立していたグループの大名たちが、三成を討ち果たそうと企て大騒ぎとなった。秀康は家康の命を受け三成のもとへ行き、ねんごろにこう言った。 「太閤が亡くなられてまだ程ない今、貴方は諸将と不和となり天下の一大事となろうとしています。この上戦いにでもなろうものなら、秀頼公にとってまさに一大事でしょう。貴方は太閤の遺命も受け、また平生の恩義は誰よりも大きいはず。恩に報いようとされるなら、暫く佐和山の城に入って諸将の怒りをなだめるべきでしょう。こういう私を疑って下さいますな、佐和山へは私が護って差し上げます。 そもそも私は太閤殿下の恩浅からず、秀頼公の御為悪しからじと思えばこそ、こう申し上げているのです。さらに貴方は日頃私の申し次ぎのお役目、ゆめゆめ疎略には思っておりません」 これを聞いた三成は涙を流し、「よく言って下さった、この上は貴方に従います」と感謝し、帰国の途についたという。 その3 関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年正月のこと。秀康は対上杉家の押さえとして、諸将を率いて宇都宮にいた。ところが兵糧米が乏しくなり、士卒の間に飢える者が出て来だしたので、秀康は役人を呼んでその理由を尋ねたところ、役人はこう説明した。 「只今兵糧米が不足し、諸軍に配当できる量がございません。その上、もし今これを分け与えてしまいますと、万一の時の備えがございません。両三日のうちに糧米は都合出来ますので、その時こそ十分に与えようと思っております」 これを聞いた秀康は、 「今にも戦があればどうする。皆秀康のために命を棄ててくれている者どもであるのに、現に兵糧の不足で兵は飢えている。これでどうやって後日に備えるというのか」 と言い、残っている米俵を皆取り出させ、俵をほどき自らの手で米を掬って兵に与えたので、多少といえども米を得て、陣中皆飢えを忘れたという。 程なく上杉景勝が三成の滅亡を聞き、秀康のもとへ降参を申し入れてきた。秀康は、三成は滅び景勝は勢いを失った今、これに乗じて攻めかかるのは武とはいえず、また上杉家は名家でありこれを滅ぼすことは心ないことだと思い、景勝へ家康に謝罪することを勧めた。 これを聞いて景勝は大いに喜び、七月に会津を発し、伏見にいる家康のもとへ謝罪に向かったという。 その4 福島正則は秀康とよく気が合ったので、度々見舞いにやってきた。ある時奏者が秀康に申し次いでいる間、正則は玄関で秀康の槍を取って鞘を外し、刃を爪にかけて見入っていた。 これを目付の者が素早く秀康に伝えたところ、たちまち顔色が変わり、「日頃大切にしている新藤五三桐の刀を持ってこい」と言った。近習の者が内緒で正則に「今日はご機嫌が悪そうですのでお帰りなされた方がよろしいようです」と伝えたので、正則は急に持病が起きたと言って立ち帰った。 秀康は槍を取り寄せ、これを預けていた金左衛門という百石取りの士を白洲へ呼び出し、槍をじっと見ながらこう言った。 「正則が爪を掛けたからといって恥ではない。もしこの槍に塵のひとつでもついていたなら、おまえを串刺しにしてやろうと思ったが、俺が見込んで預けただけのことはある、このように道具を大切に扱っていること神妙である」 と言って新地百石の加恩を与えた。 その後正則に対面し、「先日は会えなかったので残念だった」と出会うたびに言ったので、さすがの正則も非常に迷惑したという。 |