面白エピソード/名言集

戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。

【徳川家康編】
その1

 1575年の長篠合戦の際、武田勝頼は、長篠城から重囲をくぐり抜けて信長のもとへ援軍の要請をしに行った鳥居強右衛門を、その帰りに捕らえて磔にした。家康はこれを聞き、
 「勝頼は大将の器ではない。なぜなら、勇士の使い方を知らない。鳥居のような豪の者は、敵であっても命を助けて、その志を賞してやるべきである。これは味方に忠義ということがどういうものかを教える一助になるのだ。 自分の主君に対して忠義をつくす士を憎いといって磔にかけるということがあるか。いまに見ていよ。勝頼が武運尽きて滅亡するときは、譜代恩顧の士も心変わりして敵となるであろうから。あさましいことだ」と本気で軽蔑したという。そして史実に見られるように、この言葉通りの結果となった。


その2

 秀吉の小田原攻めに出陣したときのことである。

 谷間を行軍中、途中の谷川にかかった橋が細いため、馬では渡れず、橋の上下をみな歩いて渡った。家康も馬でそこに来たが、それを遙か山の上からたまたま見ていた丹羽長重、長谷川秀一、堀秀政が「家康公は有名な馬の上手。細橋を渡すところを見物せよ」と言いながら見ていると、馬は従者に渡し、家康は徒(かち)の者に背負われて橋を渡った
 三将の配下の兵たちは「家康公は馬の名人だが、あの橋を越すことが出来ず、人に背負われて渡られた」と笑いこけたが、三将は非常に感心して「家康公はあれほどまでに馬の達人とは知らなかった。馬上の巧者は危ないことはしないものだ。特に秀吉公の御陣前のこと、身を慎んで危ないことはされない。これまことに近代の巧者と申すべきである」と感嘆したという。


その3

 これは奥州九戸で一揆(九戸政実の乱)が起こったときのことである。

 家康は武州岩附(現・埼玉県岩槻)の城まで出陣した。そこで井伊直政を召されて「その方は軍装整い次第出陣し、蒲生・浅野と協力して九戸の軍事を計れ」と命じた。

 このことをうけたまわるや、本多正信は家康の前に出て「直政は当家の大切な執権ですから、このたびの討ち手は、まず彼よりも下の者をつかわされ、それがもし叶わないときこそ、直政をつかわされるのが妥当ではありますまいか」といったところ、家康は
そのようなことは思慮のない者がすることである。わしの婿の北条氏直などがすることだ。なぜならば、最初に軽い者をつかわして埒が明かないからといって、また重い者をつかわせば、はじめに行った者は面目を失い、討ち死にするほかはない。そうすれば、理由もなく家臣を殺すことになり、まことに惜しいことではないか」と言ったという。