面白エピソード/名言集

戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。

【黒田孝高(如水)編】
その1

 秀吉の四国攻めのときのことである。孝高は讃岐植田の城を攻めるべく自身検分した。この城は長宗我部元親が敵を殲滅するためにわざわざ築いたもので、おとりの兵を置き、隘路に敵を誘い込んで植田の城を攻めさせ、元親自身は阿波から間道を回り道して敵の背後に回り、夜陰に乗じて挟み撃ちにしようとの計画であった。

 しかし、孝高は皆に向かって「この国の敵には大した者はいない。こんな痩せ城を攻め落としたところで戦功にはならぬ。まず元親のいる阿波へ行き、大和秀長と相談して敵に当たろう。讃岐の敵など、阿波を落とせば自然に散ってしまう。こんなところで戦ったところで無益である」とその謀(はかりごと)を看破し、植田の城へは行かずに、阿波の軍に加わった。

 元親は植田の城を検分したのが黒田孝高自身だと聞いて、こう言ったという。

「相手がもし宇喜多秀家なら、大兵を頼みとして驕るであろう。また仙石秀久ならば、去年引田の戦いで負けているから、怒りを発して迫るであろう。この両将を誘い込んで植田の城をわざと攻めさせ、わしは阿波から出兵してわが軍略をここぞと顕わして痛めつけてやろうと思ったが、思いがけなく黒田官兵衛(孝高)という古兵(つわもの)に見破られ、全て水の泡になってしまったとは無念千万である」


その2

 孝高の、人の用い方について。彼はよく人を用いる人であった。立派な人間で、時たま悪行のあった場合には、官職を与えたり、あるいは禄を与える金銀衣服などの賜物をしておいて、二、三日してからその悪行を咎めたという

 そのため人々は賞をうけてもおごり高ぶることもなく、罰を受けてもさして恨みに思わない。これは諸将よりも勝れた点であると人々はたいそう誉めたとのことである。


その3

 孝高は、古い物は手道具に至るまで粗末なものを使い、どの品でも長い間持つということをせずに、近習の者に羽織は百五十文、二百文くらいで、足袋などもそれ相応の値段で払い下げていた。

 伽衆は「わずかな銭のためにお払い下げにならなくとも、拝領を仰せつけにならればよいのに」と言ったところ、孝高は笑って「物をもらうのと自分で買うのとどちらが嬉しいか」と聞いた。
 皆口を揃えて「人からもらうのも結構ではありますが、自分で買ったほどではありません」と答えると、孝高はこう言った。

 「それである。もらった者は喜ぶであろうが、もらわぬ者は恨むであろう。誰にやって誰にやらない、でよいというわけのものではない。しかし、だからといって功のない者にもやれば、功のある者に賞を与えるとき、その甲斐がない。だから、古い物をやりたいと思うときは安く払い下げるのだ。お前たちにしても、わずかの銭を出して買う方が得であろう