戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。 |
上田原の合戦で村上義清が武田信玄に敗れ、謙信を頼って越後へやってきたときのことである。謙信は義清に「信玄の兵の用い方はどんなものか」と聞いた。 義清は「ここ十年間信玄が勝利を得ているが、後のことを考えて慎重に物事を運び、軽率なことは少しもなく、勝っても戦前より一層用心深くなり、十里働くところを三里か五里にとどめている」と答えた。 謙信はこれを聞き、「信玄の兵の使い方は、後々を大切にするということは、国を多く取ろうという考え方が基本的にあるからだ。自分は国を取ることは考えず、後の勝利も考えず、目前に迫っている一戦を大事にするだけである」と言ったという。このあたりに謙信の「合戦観」が表れていて興味深い。 その2 1559年2月、北条氏政が二万の兵を率いて佐野昌綱の居城を囲んだときのことである。謙信はこれを聞いて八千の軍勢を率いて救援に向かった。 城が危いと聞くと、「後詰(救援軍)は自分に劣らぬ侍大将が多くいるので心配はない。肝心の佐野の城が心配だ。まず自分は城に駆け入って力を貸そう」と言って、武装もせず、黒木綿の胴服を着、十文字の槍を横たえ、たった二十三騎を率いて氏政陣二万の目の前を、馬を静かに歩かせて威風堂々城に入った。 この様子を見ていた敵の軍兵は「夜叉羅刹とはこのことにちがいない」と恐れ、近づく者もいなかったという。 これが事実であったかどうかは別にして、謙信の豪胆さが良く表れているエピソードであると思う。 その3 これは「敵に塩を送る」で有名なエピソードである。 今川氏真が北条氏康と結んで、武田領に塩を搬入することを禁止した。そのために甲斐・信濃・上野の民は非常に困った。これを聞いた謙信は、武田信玄へ次のような書を送った。 「近隣の諸将はあなたの領国に塩を入れるのを差し止めているとのことを聞きました。これはまことに卑怯千万な行為です。正面からあなたと戦う力がないからでしょう。私は何度でも運を天に任せてあなたとの決着を戦いによって決めようと思っていますので、塩はどんなことをしてもお届けしましょう。手形で必要なだけお取り寄せ下さい。もし高値で送るようなことがありましたら、重ねておっしゃって下さい。厳重に処罰いたします」 信玄や武田家重臣たちは謙信の態度に感動して、「味方に欲しい名将だ」と言った。そして、その約束通り、越後から信玄の領国には莫大な量の塩が送られたという。 |