戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。 |
須賀川の合戦で敵将2人がよく戦い、味方はちりぢりになってしまった。政宗ははるか遠くからこの様子を見て 「なかなかの勇士である。一人は二十歳くらい、もう一人は三十余歳であろう」 と言った。そして家臣の田村月斎と橋本刑部に命じてその者を捕らえさせ、年齢をただしたところ、一人は大波新四郎という者で二十一歳、もう一人は遠藤武蔵という者で三十五歳で、はたして政宗の言った通りであった。 人々がその理由を政宗に聞いたところ、こう答えたという。 「一人は勇をたのみにがむしゃらに相手を選ばず戦っている。これは弱冠の者の行為である。もう一人は強い相手を避け、弱い者を選んで戦い、進退のツボを心得ている。これは壮年にならなければ出来ぬことだからだ」 その2 秀吉は大きな猿を一匹飼っていて、諸大名が登城してくると、わざわざその通路に猿を繋いでおいた。そして猿に歯をむき出して諸大名に飛びかかるように仕向け、そのときの狼狽ぶりを蔭から覗き見て楽しむという癖があった。これを聞きつけた政宗は病と称して登城せず、その猿の世話役を金品で買収し、密かに猿を借り出すことに成功した。 猿は政宗が通りかかると歯をむいて飛びかかろうとするのだが、政宗はそのたびに鞭でいやと言うほど猿を打ち据えることを繰り返した。当然ながら、次第に猿は政宗を見るとおびえるようになった。そうしておいて、猿を世話人の元へ戻したのである。 さて、政宗が久しぶりに登城することを知った秀吉は、こういう事情があるとも知らず、いつものように猿を繋ぎ、政宗のあわてる姿を期待して密かに覗き見をした。 政宗がそばを通りかかろうとしたとき、猿は歯をむいて飛びかかろうとしたが、政宗がはったとにらみつけた瞬間、猿はおびえて後ずさりした。 これを見ていた秀吉は、「政宗の曲者め、また先回りしおってからに」と言って笑ったという。 その3 大阪冬の陣での出来事である。戦いは和睦の扱いとなり、家康に従ってきた諸大名はヒマになった。そこで、そこかしこで香合わせが行われたが、たまたま政宗が行き合わせたので、それに参加して勝負することになった。 他の大名たちはそれぞれ、鞍の泥よけとか弓矢などを景品として出したが、政宗は自分の腰につけていた1個のひょうたんを景品として出した。周りのみんなはおかしな景品だといって、それを取る者などいなかったが、その家の亭主の家来がこれを取って事無く香合わせが終わった。ところが、政宗が帰るときに 「ほら、ことわざ通り、ひょうたんから駒が出たぞよ」と言って、政宗が乗ってきた馬を飾りをつけたまま、その者に与えられた。 はじめのうちは、奥州の大将の景品ともあろう品が・・・と言って笑っていた者も、このときになってはじめて政宗の意を知ってうらやましがったという。 |