戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。 |
沖田畷の合戦で龍造寺隆信が島津家久の軍に敗れて討死した直後のことである。島津家から河上助七郎という者が使として隆信の首を持参し、筑後榎津というところまで船で来てその旨を連絡してきた。直茂は「これは我が国の強弱(国情)を偵察しに来たに違いない」と察し、大隈安芸守という者にこう言わせた。 「隆信の首を送っていただいたお気持ちは非常に有り難く存じますが、このような不運の首を此方が貰い受けてもしょうがないこと、どこへでも捨て置いて下さい」 助七郎はそう言われてはどうしようもなく、首を持ち帰って高瀬の願行寺というところに葬って帰国した。これは沖田畷の合戦で龍造寺家の主立った者が多く戦死しており、今にも崩壊しそうな危ないところであったが、直茂のこの強気の態度で島津軍が佐嘉に攻め込むことはなかった。 この話を聞いた国中の人々は、いよいよ直茂を龍造寺家の柱と思うようになっていったという。 その2 天正十三年に筑後鎮圧にやってきた大友家の軍勢に加勢していた大友家の名将・立花道雪が、瀬高口の陣を引き払う際、嘆息して 「ああ、天晴れ鍋島は智仁勇の備わった大将である。私が長年知恵を絞って謀ろうとしても、決してやすやす謀らせはしない。また運を天に任せて時を待とうとしても、鍋島はまだ若く(編注:当時48才)また健康である。それに引き替え私は年老いて(編注:当時73才)しかも病身である。悔しいめぐりあわせだ」 と言って首を垂れて悔やんだという。そしてその病もますます重くなり、ついにその年の十月二十二日に陣中で歿した。直茂はこれを聞き、涙を流して道雪の死を悼んだという。 その3 秀吉が病歿した直後、大坂方の奉行らが家康を亡ぼそうと企んだ際、直茂は伏見に行って家康の館の警備に当たり、家康は非常に喜んだ。直茂が言うには、 「今回のことはさておき、私の死後も子供らに申し伝え、万一徳川家にもしものことがあるときは当家も共に戦って滅びましょう。畏れ多いことですが、このことを(家康の)御子孫におっしゃっていただけるのであれば、これに過ぎる喜びはありません」 家康はこれを聞いて大いに感じ、「中納言(秀忠)にもその旨を申し伝えよう」と言った。 さて、関ヶ原の合戦となり、直茂の子の勝茂は大坂方に加担して伏見・阿濃津・松阪などの城を攻めた。国もとにいてこれを聞いた直茂は仰天し、下村左馬介という者を勝茂のもとに遣わしてこう言わせてその行動を制した。 「今回の戦はまだ幼い秀頼公は何も関わっていない。奉行たちが私怨を晴らすために内府(家康)を亡きものにしようとしているだけだ。私は内府とかねてより約束している。間違っても東国の軍勢に向かって矢を放っては成らぬ。これは故太閤のおっしゃった通り、秀頼公に背かずまた内府の命を重んじなければならない」 勝茂は非常に驚いて先の非を悔やみ、罪を謝したところ、これを聞いた家康は、 「彼の父直茂とは、かねて約束したことがある。どうしてそれを違えようか」 こう言ってたちどころに勝茂の罪を許したという。 |