面白エピソード/名言集

戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。

【長野業正編】
その1

 真田幸隆が、父幸義が村上義清との戦いで戦死したため、上野箕輪城の長野業正を頼ってやって来た。暫く滞在していたが、友人山本勘助の紹介により武田信玄(当時は晴信)に仕えることになり、業正に報せず密かに箕輪を去ろうとした。そこで幸隆は一計を案じ、具合が悪いと言って出仕を止めて家に引き籠もった。

 これを聞いた業正は、急いで使を立てて幸隆のもとへ行かせ、
「それはいけない。今回の所労は尋常の医薬では治らないだろう。今日明日のうちにも甘楽峠を越えて良薬を探しに行かれよ」
と伝え、馬をたくさん与えた。

 幸隆はこれを聞いて大いに驚いたが、普段通りの様子で使をもてなし、
「お気遣いありがとうございます、ただ予想以上に具合が悪く、なかなか出立できそうにありません」
と答えたが、療治は一日も早い方がと促され、その夜のうちに出立した。

 さて幸隆が武田領へ急ごうと下仁田にさしかかったころ、続いて来る馬の背には家具が積まれ、その後には妻や家僕がやってくるではないか。これはと不審に思い聞いてみたところ、幸隆の出立後に業正の老臣がやってきて、これを我らの追い及ばない所で幸隆殿に渡されよと、一通の手紙を手渡したという。
 幸隆が開いてみると、そこにはこう書いてあった。

甲斐に武田信玄あり、まだ若いがまたとない弓取りである。しかし、箕輪にこの業正がいる限りは、碓氷川を越えて馬に草飼わせよう(編注:業正の領内を侵す、の意)と思ってもらっては困るぞ・・・

 幸隆はこれを読んで恥ずかしく思い、こんなことなら腹を割って話し合うべきだった、隠して逃げるように出立したのはまずかった、と馬を止めてしばらく呆然とその場に立ちすくんだという。


その2

 永禄四年、七十一歳になった業正は病にかかり、普段の状態も思わしくなく人に会わず家に籠もっていたが、ある日突然、そろそろ客があるだろうからその用意をしておけ、と家臣に命じた。偶然ではあるが、ちょうどその頃、羽尾に引退した真田幸隆が旧恩の御礼の言上をと居館を出発し、業正のもとに向かっていた。
 家臣から幸隆到着と聞いた業正は、手を打って「そうだろう、かねてからそう思っていた」と喜び、幸隆と色々話をして言うには、

貴公が箕輪にいた頃、その言を誰も用いなかったことからついに武田家の謀臣となし、上杉家先祖の国信濃も切り取られてしまった。この上野もいずれそうなるだろう。私ももう七十を過ぎ、余命もない。同じ取られるなら、他人より気心の分かる貴公に渡すことが憂いの中の喜びというものだ。さて、ここに吾妻郡に続いた利根郡という地がある。ここを計略すればよいだろう

 幸隆が、それは誰の所領ですかと尋ねたところ、業正は声を低くして、

私の養女の夫で四十一歳になる沼田上野介景康(編注:万鬼斎顕泰のこと)という者で、さほど色に溺れるような思慮のない者ではないが、最近金子美濃守とかの姪とかいう素性の知れぬ女に産ませた子を平八郎景義と名乗らせ寵愛し、嫡子景久をないがしろにしているところを見ると、廃嫡せんとする素振りが見受けられる。 これでは沼田の家もそう長くはないだろう。私にとってこの家を奪うことはたやすいが、寿命も尽きたようだし、我が子の力ではまだ及ばないと思うので貴公に進上しよう。くれぐれも疑いなさるな

と言った。聞いた幸隆は色を正して座を降り、改まって業正の好意を謝した。そして、これから沼田へ行き方便を駆使して見事奪い取り、いつかご覧に入れましょう、と告げて箕輪を去った。

 のちに幸隆の子昌幸が見事沼田を攻略するのだが、これは業正の教えに従って幸隆が沼田へ行き、十分な謀略を施していたからこそできたことである。

 ※業正の没年齢には63歳説もありますが、ここでは「名将言行録」中の記述を優先しました。