戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。 |
【Photo : 現在の清洲城】 1549年、彼の父信秀が死に、その葬式のときのことであった。 信長は弟の信行とともに葬儀に列席したのだが、長柄の刀脇差を藁(わら)縄で巻いたものを腰に差し、髪は茶筅に無造作に束ね、袴もつけないという出で立ちであったという。 一方の信行は折り目のきちんとした袴・肩衣(かたぎぬ)という正統な装束であった。信長は位牌の前に出て抹香をかっと掴み、仏前に投げかけて帰った。 そこにいた者は皆、弟の信行を褒めて信長のことを「例のうつけ者よ」と言って口々に非難した。と、まあここまでは良く知られている話であるが、興味深い続きがある。 列席者の中に筑紫の僧がいた。彼は信長を見て「この人こそかならず国郡をもつべき人だ」と言って賞したという。 その2 長島願証寺の一向一揆征伐の時のことである。 蒲生氏郷は敵の豪傑と組み打ちして、ついにその首を取って首実検に持ってきた。信長はそれをあざ笑って褒めなかった。しばらくして言うには、 「およそ勝負というものは時の運によるのであるから、前もっては計れないことである。功名は武士の本意であるとは言いながら、それも内容次第のことである。今のおまえの功名は軽率な挙動である。ひとかどの武を志すほどの者なら、けっしてこのような功名を望んではならない。身の危険を顧みないのは、それほどの功とは言えない。今後はこのことを忘れるな」と言ったという。 その3 これは上杉謙信麾下筆頭の猛将・柿崎和泉守景家を謀略で始末したときのことである。 景家がある時、北国産の馬を尾張につかわして売らせた。これを聞きつけた信長は、謙信と景家との間に反間を策すよい機会だと喜んでその馬を買い取り、黄金数百両と虎の皮を景家に与えた。さらに「これからも良い馬があれば必ず送ってよこせよ」との書まで添えてやった。 景家は不当に儲けているとの誹りが起こることを恥じて、このことは家中の誰にも言わなかった。しかしあるときこの事を察知した者が謙信に讒言したため、謙信は非常に怒り、景家を呼びつけて詰問し、ついに手討ちにしたのである。真正面からぶつかればまず破ることは難しいほどの天下に聞こえた猛将を、信長は一兵も損ぜずに抹殺することに成功したのである。 その4 これは近畿を平定し、信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃のことである。 近臣たちがへつらって「このように強大になるとも知らずに平手政秀が自害した(政秀は若い時の信長の素行を改めさせようと諫死した)のは短慮でした」というと、信長は顔色を変えて怒り、「わしがこのように弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそだ。古今に比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」と言った。 信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、その一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。 |