戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。 |
関ヶ原の際に西軍に加担し、死は免れたものの、幸村は父昌幸と共に九度山へ配流された。やがて昌幸も亡くなり、寂しく暮らしていた幸村であったが、大坂方と家康の対立が深まり、一触即発の雰囲気となってきたときのことである(大阪冬の陣直前)。 幸村が大坂城に入城すべく準備しているとの知らせを受けた紀伊国主・浅野但馬守長晟は、幸村の在所近辺の百姓を集め、「世情の騒がしいときであるから、幸村が大坂に入城することもあろう。油断せぬように」と申しつけた。 それを早くも察知した幸村は、「父昌幸の法要につき高野山から僧を呼び七日間の仏事を執り行う」と言いふらし、付近の庄屋・年寄・百姓らを多数招いて法要を営んだ。 数百人もの人々が幸村の屋敷に集まり、一日飲食して過ごし、みな酒に酔いつぶれて前後不覚に眠り込んでしまった。その隙に幸村はかねてから準備していたとおり、遠来の庄屋などが乗ってきた馬をみな拝借し、あっという間に大坂へと脱出した。 寝込んでいた者たちが目覚めると、もはや家には誰一人いない。追いかけようにももはや術はなく、仕方なく領主に事の顛末を報告した。 これを聞いた長晟ははたと手を打って「そうか。真田ほどの者を百姓風情に止めろと命ずることの方がよっぽどおかしいのだ」と言い、特に百姓たちへのお咎めもなく、また後々も何も言ってこなかったという。 その2 大坂冬の陣直前のこと、大坂方の将・大野治長の屋敷に伝心月叟(でんしんげっそう)と名乗る山伏が訪れて「大峯の山伏です。ご祈祷の巻数を差し上げるために拝謁をお願いしたいのですが」と案内を求めた。あいにく治長は登城中だったので、番所の脇に通され、そこで待たされることになった。 そこには若侍十人ほどが集まっており、刀の目利き(鑑定)を始めた。そのうちの一人が月叟に「貴殿の刀をお見せ下さい」と言うと、月叟は「山伏の刀はただ犬を脅すためのもので、お目にかけるほどでもありませんが・・・」と言いつつ差し出すと、姿形はもとより、刃の匂いといい光りといい、何とも言えず、「さてさてまことに見事なもの」と誉めた。 さらに脇差しも同様で、中子の銘を見てみると、脇差しは貞宗、刀は正宗であった。皆が「これはただ者でない」と騒いでいるところへ治長が帰ってきた。 治長は月叟を見るや両手をついて畏まり、丁重な挨拶をした上で使いを城へ走らせ、月叟を書院に招じてたいそう馳走をした。やがて城から速水甲斐守が使として訪れ、黄金三百枚・銀三十貫を秀頼公から賜る旨を告げた。治長の家の者はこの時初めて「この山伏は真田幸村公だ」と気づいたという。 その後幸村が彼らに会ったとき、「刀の目利きの腕は上がったか」とたずねたので、皆赤面したという。 その3 幸村が夏の陣で討ち死にした後のことである。幸村の首実検に出た家康は、「左衛門佐(幸村)にあやかれよ」と言って彼の頭髪を一本ずつ抜き、武将の面々に取らせた。幸村は戦死したが、その家臣の誰一人として降参した者はいなかった。これは日頃士を養っている態度が良かったからだと人々は皆感嘆したという。 また、後に徳川光圀は、 「幸村は神祖(家康)に敵対して、つねに村正の刀を持っていた。村正は徳川家にとって不吉な刀であるから、呪い殺すという意味だと聞いている。武士たる者、このようにつねに心を尽くしてこそ、まことの人臣というべきだ」 こう述べて彼を称賛したという。 |