【島左近編】
その1
左近が筒井家を辞して浪人し落魄していた時のことである。彼は持ち合わせの金もなく、生活に困っていた。ところで吉野の辺りにとても裕福な親族がいたのだが、生まれつきケチな人物で、困っている人を助けようなどという気はさらさら持ち合わせておらず、度々左近は借金を申し込んだのだが承諾してはくれなかった。
そこで彼は一計を案じ、弁の立つ者を使に立てて遣わせ、こう言わせた。
「この度少し金が必要につきお借りしたく思うのですが、無理にとは申しません。親族の誼をもって貴家の為に申し上げます。そもそも財宝を人に惜しみなく分け与えるような人の家は子孫は長く栄え、悪事の起こるようなことはありません。しかしそうしない人には災害はほど近く訪れることでしょう」
これを聞いた親族の者は、もともと貪欲な性格の持ち主だったので、この言葉に騙され(?)て信用し、早速金を貸し与えたという。
その2
【Photo : 左近の屋敷跡と伝えられる、井伊家菩提寺の清涼寺(彦根市)】
左近が石田三成に仕え、大坂城の天守に三成に従って登ったときのことである。
三成は天守より四方を見渡し、城下の繁栄を見て居並ぶ人々にこう言った。
「天下擾乱の時、大器で知謀に優れた秀吉公が出て群雄を次々と従え、五畿七道を掌握なされた。今もなおこのように繁栄し、民の喜ぶ姿が見られ、またその歓声を聞く。秀頼公の永世を祈らぬ者などいるはずがない」
これを聞いた人々は口々に「その通りだ」と言った。しかし、左近は帰ってから三成にこう言った。
「そもそも権力者の所在地には、昔から身分を問わず人は集まって参ります。つまり、たとえ繁栄していると言えども、必ずしもそれは権力者の人徳によるものとは限りません。人々は利のある方に就くというだけなのです。城下を二、三里も離れないうちに、雨も満足にしのげない茅屋が建ち並び、衣食も十分とは言えず道に倒れて餓死する者も多くいます。
今、豊臣家は安穏としているときではなく、御家安泰の道を武備にだけ頼るのはいけません。まず将士を愛し、庶民を撫してその心を悉く掴むときには二心を抱く者とて服従し、恨みを持つ者も疑いが和らぎ、たとえ力を頼んで謀反する者が出ても、一檄を飛ばせばたちまち秀吉公恩顧の将士が馳せ集まって逆賊は或いは降伏し、或いは誅されるでしょう。
これを頭に入れず、ただ城下の繁栄に驕り下々の憂苦を思わず、武備にのみ力を注ぎ城壁塹壕の補修のみ行っても、徳や礼儀をもってその根本から培養していかないと、甚だ危険なことになります」
しかし、三成は左近のこの言を用いなかったため自滅してしまった。
その3
【Photo : 立本寺教法院にある左近の墓(京都市)】
関ヶ原の時のこと、上方勢(西軍)は東軍が押し寄せてくるのを見て大いに動揺した。左近は皆に
「内府(家康)は関東にて上杉景勝と交戦中なので上って来られるはずはない。だから敵は計略をもって夜には兵を出し、昼は押して入り、内府の着陣したように見せかけているだけだ」
と言って廻り兵を鎮めているところに、白旗がおびただしく翻ったので、いよいよ「内府が着陣した」と動揺が広がった。
左近は平然として、
「惣白の旗は金森法印である。では足軽どもを出して敵の形勢を窺ってみよう」
と、宇喜多秀家の兵とともに株瀬川(くいせがわ)の前に陣を置き、近くの薮の中に伏兵を設けておき、軽兵に川を渡らせて中村一栄の陣に鉄炮を撃ちかけた。一栄の兵がこれを見て左近勢に攻めかかり、競って押し寄せてきたため、わざと支えきれないふりをして退却したところ、敵は図に乗り川を渡って攻め寄せてきた。
左近がかねて用意しておいた伏兵が両翼からこれを囲み、さんざんに敵を撃ち破ったため、東軍は本多忠勝を出して兵を引き上げさせた。この左近の働きによって陣中の動揺が静まったため、人は皆左近の働きを讃えたという。
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