面白エピソード/名言集

戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。

【島津義久編】
その1

 豊後の大友義鎮(宗麟)が特に可愛がっていた鷹が、ある日突然行方が分からなくなった。その鷹は島津領・日向宮崎の久保山治郎という者の在所に飛んできたが、そういう事情を知らない久保山はこれを捕らえて義久に贈った。これを知った義鎮は非常に怒り、手の者を出して久保山を捕らえた。これを聞いた義久は義鎮のもとに使者をつかわし、鷹も返した上に

 「大友お屋形のご秘蔵のものと知っていたなら、義久もとどめ置かなかったでしょうに。また、久保山ももしそれを知っておりましたなら、お屋形のもとへ鷹を届けましたでしょうに。彼も知らなかったのです、彼の罪をこの義久に免じてお許しいただけませんでしょうか」

 と、ねんごろに謝罪した。ところが義鎮はますます怒り、使者の前で久保山の首をはねてしまった。

 使者は肝をつぶして帰ってきたが、この話を聞いた人々の心は次第に大友家から離れ、島津家に傾いていったという。


その2

 義久は沖田畷の戦いにおいて、弟家久の手により肥前の龍造寺隆信を討ち取りその首を挙げたが、これを幕下の赤星(親家)の仇だからといって彼の未亡人に届けさせた。
 未亡人はとても喜んでその首を熟視し、夫や子の敵だからと木履でその首を踏みつけたという。義久はそれを耳にして非常に怒り、

 「敵の首は、実検するにもそれ相応の礼儀というものがある。いかに女であろうとも、武将の首を足蹴の恥にあわせるとは許せぬ。礼もなく儀もない愚かな女だ」

 と言って、その後音信を絶ったという。


その3

 薩摩の国・国分の城門は茅葺きであったが、破損したので家臣たちが義久に
 「お城の門が壊れましたので、この際ご修理ついでに小板葺きにされてはどうでしょうか。他国から使者が来て、三ヶ国の太守がおわす城門が茅葺きでは、あまりにも粗末のように存じますが」
 と言った。それを聞いた義久はこう答えたという。

 「他国から使者としてよこされるほどの者は、きっと心ある者である。使者としてくるからには、当国の地を数里も通ってくるわけだから、それならば三ヶ国の太守の城門が茅葺きで粗末であっても、途中で目に入る国民の風俗を見れば、国は富み栄え、仁政がさだめし厚く行われてているという大事なところにこそ気づくであろう。小板葺きにして城門だけ立派になっても、百姓どもが疲れ切っているようでは、国主のやり方が良くないことをちゃんと見抜くであろう。肝要のところに気を配らず、どうでもよいところに気をつけるものではない。城門など茅葺きであっても一向にかまわぬ