分国法(戦国家法)一覧

戦国大名は、自分の領国を統治するためにいろいろな基本法(分国法)を制定していました。ここでは戦国時代に制定された主な分国法をいくつか紹介します。


朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)

 「朝倉敏景十七箇条」ともいい、越前の戦国大名・朝倉孝景が制定した分国法。朝倉家には代々の宿老をおかずに能力本位で人材を登用するということや、一乗谷への家臣の集住などを定めている。また「一万疋の名刀を買う金があれば百疋の槍を百本買って百人の足軽に持たせよ」という字句も見られ、戦いの形式が個人戦から集団戦へと変わったことへの認識が窺われる。


今川仮名目録(いまがわかなもくろく)

 駿河の戦国大名・今川氏親の定めた三十三条(1526年)と、子の義元が定めた二十一条(1553年)の計五十四条からなる分国法。訴訟に関する法規が多く見られ、他国人との通婚禁止なども定められている。


大内家壁書(おおうちけかべがき)

 周防を本拠とする守護大名・大内氏の分国法で、教弘・政弘・義興の三代(1459〜1495年)による五十項目からなる。壁や門に条文を記した板などを掲げて民衆に示したことから、この名がある。


大友義長条々(おおともよしながじょうじょう)

 九州豊後の戦国大名・大友義長(義鑑の父、宗麟の祖父)が1515年に制定した大友家初の戦国家法。内容は当主には領国の統治方針と遵守すべき事、家臣や領民にはその持つべき心構えなどが多岐にわたって定められている。


甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)

 甲斐の戦国大名・武田信玄が1547年に定めた分国法で、「信玄家法」とも呼ばれる。上下二巻から成り、上巻は五十七条の条文、下巻は家訓。軍略や家臣団の統制、治安の規定などが中心に定められている。


塵芥集(じんかいしゅう)

 奥州の戦国大名・伊達稙宗が1536年に制定した、百七十条から成る最大の分国法。鎌倉時代の御成敗式目(北条泰時制定)の形式にならい、ありとあらゆる規定がなされているという意味から、この名がつけられたという。


早雲寺殿二十一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)

 相模小田原を本拠とする戦国大名・北条早雲によって制定された分国法(制定年は不詳)。日常生活や礼儀、文武両道の心得などが、事細かく誰にでもわかりやすく書かれているのが特徴である。


長宗我部元親百箇条(ちょうそかべもとちかひゃっかじょう)

 土佐の戦国大名・長宗我部元親とその子盛親により1597年に制定された分国法。侍の心得や身分・商業・交通・私生活全般にわたる領内法で、家法の「長宗我部元親式目」とはまた別のものである。


結城家法度(ゆうきけはっと)

 下総国結城の戦国大名・結城政勝が1566年に制定した分国法で、「結城家新法度」とも呼ばれる。百六条から成る、質量共に「塵芥集」に次ぐもので、訴訟の手続きや家臣団統制、商取引の規定などが見られる。


六角氏式目(ろっかくししきもく)

 近江国南部の戦国大名・六角義治が1567年に制定したとされるが、実は有力家臣の進藤・蒲生氏などが起草し、義治に遵守を約束させたものといわれる。六十七箇条から成り、民事規定が中心となっているのが特徴で、「義治式目」とも呼ばれる。