荒木田守武(あらきだ もりたけ) 1473〜1549
伊勢内宮(ないくう)禰宜(ねぎ)守秀の子で神道家・連歌師・俳諧師として活躍。和歌や連歌に堪能で「伊勢論語」と呼ばれる「世中百首」や「合点之句」を著し、後世の俳諧発達の素地を作った。山崎宗鑑・松永貞徳とともに俳諧の三神と称される。
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい) ? 〜1600 ☆
佐藤銀山城を本拠とする安芸の名族武田氏の一族・武田信重の子で、後に毛利家の外交担当となった臨済僧。信長の奇禍を予言したことで知られる。秀吉との備中高松城対峙の際に活躍、後には秀吉麾下の大名となる。東福寺住職も務めたが関ヶ原で敗れ、三成らとともに三条河原で斬首された。
一雲斎針阿弥(いちうんさい しんあみ) ? 〜1582
織田信長の吏僚を務めた同朋衆で、出身は不明。楠長諳の書状に副状を出していたことが記録にある。本能寺の変の際に信長の近習たちとともに殉じた。
一条内基(いちじょう うちもと) 1548〜1611
五摂家のひとつ、一条家の公家。関白一条房通の二男。若くして次々と官位を登り1581年に関白に任ぜられるが、3年後にその職を辞した。
今井宗久(いまい そうきゅう) 1520〜1593
出身は近江とも大和ともいわれる堺の商人で、信長と堺衆が対立したときに津田宗及とともに町衆を説得、武力衝突を回避した。以後信長の信頼を得て鉄砲・弾薬の製造に乗り出し巨富を築く。武野紹鴎の門下で女婿、茶道三宗匠の一人として知られる。
正親町天皇(おおぎまちてんのう) 1517〜1593
後奈良天皇の第二皇子で第106代天皇。諱は方仁で在位期間は1557〜86年。毛利元就の献金により即位の礼を執り行い、応仁の乱以後途絶えていた諸儀式を復活させた。
太田牛一(おおた うしかず) 1527〜 ?
通称又助、和泉守。はじめ柴田勝家の家臣であったが、弓術の技を認められて信長の直臣となる。その愚直とも言われる性格で書きつづった著書「信長公記」は、信長はもとより戦国期の研究には欠かせない当時の一級資料として知られる。
小瀬甫庵(おぜ ほあん) 1565〜1640
名は道喜といい、はじめ豊臣秀次に医術で仕え、後に宇喜多秀家、堀尾吉晴と仕えた。吉晴歿後は浪人したが、この間「太閤記」と太田牛一の「信長公記」を自分流に書き直した「信長記」を著した。
快川紹喜(かいせん じょうき) ? 〜1582
美濃土岐氏一族の出自とされる臨済宗関山派の僧侶で、斎藤義龍と宗派問題で対立し尾張を経て甲斐恵林寺に移る。1582年織田信長の甲斐攻めの際、寺内に匿っていた六角義治の引き渡しを拒否したため寺に放火され、「心頭滅却すれば火もおのずから涼し」の言葉を残して端然と座ったまま焼け死んだ。
海北友松(かいほう ゆうしょう) 1533〜1615
浅井家の勇将・海北綱親の子で狩野元信に師事した画家。浅井家滅亡時には京にあったため難を逃れた。明智光秀の臣・斎藤利三と親交があり、山崎合戦後に彼が京・粟田口で梟首されたとき敢然と番士に襲いかかって首を奪い、真如堂に丁重に葬ったという。
勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ) 1544〜1602
晴右の子で大納言。1576年以降、父晴右の跡を継いで信長・秀吉時代の武家伝奏を務めた。信長と本願寺との間に起きた石山合戦では正親町天皇との間に立って奔走、和平調停を成立させた。「晴豊公記」の作者としても知られる。
加藤浄与(かとう じょうよ) 生没年不詳
京都西陣の呉服屋で、屋号は武蔵屋伊兵衛。元は加藤数馬と名乗り仙台伊達家の士であったが、叔父に関わる不祥事から主家を致仕、京都で呉服屋を始めたという。石田三成の家老島左近とは遠縁に当たるとされ、関ヶ原合戦後には左近の娘・珠を養育したという。この珠は後に柳生兵庫介利厳の側室となり、連也斎厳包を生んだ。
神屋宗湛(かみや そうたん) 1553〜1635
紹策の子で豊臣秀吉に目を掛けられた博多の豪商。博多を拠点に銀を独占して海外貿易を行い、巨万の富を築いた。茶人としても高名で、秀吉から所望されても断ったという名物唐物茶入・博多文琳を所持。北野大茶会では遅刻して周囲をやきもきさせたが秀吉は笑って許したという。文禄・慶長の役の際は兵糧の調達に奔走して秀吉に協力するが、関ヶ原合戦後には黒田藩の御用商人となった。著書に「神屋宗湛日記」がある。
北向道陳(きたむき どうちん) 1504〜1562
本姓は荒木氏。堺の舳松(へのまつ)町北向に住む茶人で千利休の師匠。本職は医師であろうとされる。空海(島右京)に茶を学び、唐物の目利きに優れた。利休がまだ与四郎と名乗っていた頃に武野紹鴎に引き合わせたと伝えられる。
金官(きんかん) ? 〜1611
朝鮮王子の小侍郎。金官は職称で本名は良甫鑑。文禄役の際に加藤清正に捕らえられ、咸鏡道の道案内を務めた。清正を慕い、帰国に同行して日本に帰化。のち二百石を与えられ近習として仕える。清正の没後程なく殉死した。
楠 長諳(くすのき ちょうあん) 1520〜1596
前名は大饗(おおあえ)長左右衛門尉正虎で河内守、式部卿法印を称す。もと松永久秀の右筆として知られ、祖の楠木正成が朝敵だったことから、その赦免を正親町天皇に願い出て許された。後に信長・秀吉にも右筆として仕えた。
光浄院暹慶(こうじょういん せんけい) 1536〜1612
俗名は山岡景友。近江勢多(瀬田)城主・山岡景隆の実弟。圓城寺(おんじょうじ=三井寺)に僧籍を起く足利義昭の家臣として織田信長と戦うが、柴田勝家に石山砦を落とされ降伏、還俗して山岡景友に戻る。秀吉には御咄衆・道阿弥として仕え、後に家康の下で旗本として残った。
古渓宗陳(こけい そうちん) 1515〜1597
別号蒲菴、京都大徳寺百十七代住持。大慈広照禅師。越前朝倉氏の一族に生まれ、出家後足利学校で学ぶ。秀吉が信長の菩提を弔うため総見院を建立した際には開山となり、豊臣秀長の葬儀では導師を務めた。
後藤光次(ごとう みつつぐ) 1571〜1625
徳川家康の家臣で御金改役を務めた金工家。旧姓は山崎、通称庄三郎。秀吉の金子吹座を務めた京都後藤家の当主徳乗の弟子となり、のち光乗の養子となる。徳川家の金座統括役ながら、大坂の陣の際には本多正純とともに大坂方大野治長との交渉の席につき、講和に尽力。落城後は城内の金銀の接収にあたったという。
近衛前久(このえ さきひさ) 1536〜1612
五摂家筆頭の近衛稙家の嫡子に生まれ、関白・左大臣に任ぜられて晴嗣・前嗣・前久の順に改名、後に龍山を称す。1568年足利義昭と対立して出奔、関白職を罷免された。「放浪関白」などといわれたが歌道・書道に長じ、京文化の地方伝播に貢献した。晩年は子の信伊と所領問題で不和となり、失意のうちに歿した。
近衛稙家(このえ たねいえ) 1503〜1566
五摂家筆頭の近衛家十五代当主、父は近衛尚通。永正十一年元服して公卿に列し、大永五年には関白に任ぜられるが天文二年に辞任、しかし同五年に関白再任と同時に太政大臣に就く。妹が足利義晴の妻であったことから、義晴と共に近江朽木谷へ流寓したりした。
近衛信尹(このえ のぶただ) 1565〜1614
前久の子。朝鮮の役の際は秀吉に渡海を求めたため後陽成天皇の怒りに触れ、薩摩に流された。後に許されて帰洛、1605年関白に任ぜられるが、父前久と争い翌年職を辞した。諸芸に堪能で、特に能筆家として知られ「寛永の三筆」の一人に数えられる。
後奈良天皇(ごならてんのう) 1496〜1557
後柏原天皇の皇子で第105代天皇。在位期間は1526〜57年。経済的に非常にお困りで、そのため即位式は10年後に行われたほどであった。
後陽成天皇(ごようぜいてんのう)1571〜1617
正親町天皇の孫で諱は和仁。第107代天皇。在位期間は1586〜1611年。関ヶ原前哨戦で細川幽斎が丹後田辺城に籠城した際、勅命を出して幽斎を救ったことで知られる。和歌に非常にご堪能であったと伝えられる。
金地院崇伝(こんちいん すうでん)1569〜1633
家康の黒幕的存在の臨済僧で、以心崇伝ともいう。「黒衣の宰相」と呼ばれ、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件を仕組んだとされる。また紫衣事件で沢庵を流罪にしたことから世上の人気を失った。
策彦周良(さくげん しゅうりょう) 1501〜1579
丹波の生まれで別号謙斎、戦国期の臨済僧で数々の優れた漢詩を残した。天竜寺に入り心翁周安に師事、妙智院第三世となる。天文八年には将軍足利義晴の命により二度にわたって明に渡り、その禅文化をもたらした。著書に『初渡集』『再渡集』『南游集』『謙斎詩稿集』などがある。
里村紹巴(さとむら じょうは) 1525〜1602
戦国期の連歌師で、本姓は松村氏。連歌師周桂に入門、後に里村昌休の弟子となる。明智光秀や細川幽斎、松永貞徳らと親交があった。連歌史上最後の巨匠と賞賛されたが、後に秀次事件に連座して蟄居。
誠仁親王(さねひとしんのう) 1552〜1586
正親町天皇の第一皇子。二条御所に住み、107代天皇になるはずであったが病没。これにより正親町天皇は皇孫和仁親王(後陽成天皇)に譲位した。
三条西実隆(さんじょうにし さねたか) 1455〜1537
宗祇から古今の伝授を受けたとされる公家で内大臣。歌道・書道・香道に堪能な学者で、各界を指導した。その門下からは武野紹鴎はじめ優秀な人材を輩出。また、「実隆卿記」の著者としても知られる。。
島井宗室(しまい そうしつ) 1539〜1615
博多の豪商で茶人としても高名。名は茂勝。永寿丸という廻船を持ち、対馬を中継地点として中国・朝鮮との貿易で蓄財。宗・松浦・大友氏をはじめ織田信長・豊臣秀吉ともパイプを持った。堺や奈良の茶人とも交流があり、名物・楢柴の茶入れを所有。本能寺の変の際には信長に招かれ同寺に滞在していたが無事に難を逃れたという。朝鮮役の際には小西行長に代わり宗氏とともに折衝役を務めるなど政治面でも活躍した。
角倉了以(すみのくら りょうい) 1554〜1614
名は光好で医者吉田宗桂の長男。山城嵯峨の豪商だが家督を弟に譲り河川開削に没頭、優れた技術を開発した。大堰川・富士川・鴨川・高瀬川に船運を開通させたことで知られる。中でも京の高瀬川は私費七万五千両を投じた人工の運河であったという。
千 利休(せんの りきゅう) 1522〜1591
堺の納屋衆与兵衛の二男。初め北向道陳のち武野紹鴎に入門してわび茶を学び、これを大成させた千家流茶道の祖。また大徳寺で禅を修得、宗易を名乗る。信長や秀吉の茶頭の第一人者として存在したが、その理想とするところが権力者秀吉と大きく異なり、次第に対立。ついに「大徳寺木像事件」で秀吉と衝突し、切腹を命じられた。
曽呂利新左衛門(そろり しんざえもん) 生没年不詳
秀吉の御咄衆で、知恵袋ともいわれた堺の鞘(さや)師。彼の鞘にはソロリと刀が収まったことからこの名がついたという。出身は和泉大鳥郡と伝えられてはいるが、実在したかどうかははっきりしていない。
大覚寺義俊(だいかくじ ぎしゅん) ? 〜1567
関白太政大臣近衛尚通の子で同稙家の弟、前久の叔父に当たる。真言宗大覚寺門跡、摂津四天王寺別当職を務める。才人として知られ、特に連歌には堪能で、紹巴や三条西実隆らと連歌会を催した。朝廷と大名間のパイプ役としても活躍、朝倉義景主催の「曲水の宴」にも列席、上杉・武田・北条氏の和睦勧告の使などを務めた。
高三隆達(たかさぶ りゅうたつ) 1527〜1611
祖は漢人の劉氏といわれる堺の薬屋に生まれる。諸芸の達人といわれ、書では堺流を広め、小唄では隆達節の祖となった。隆達節とは、「閑吟集」などに節をつけて唄ったもので、近世小唄の原型である。
武井夕庵(たけい せきあん) 生没年不詳
はじめ美濃守護土岐頼芸、のち斎藤道三・義龍・龍興三代に仕えた文官で、文筆に堪能で副状を発する地位にあった。主家滅亡後は織田信長に右筆として重用され、奏者役も兼務したという。天正三年には二位法印に叙された。
武野紹鴎(たけの じょうおう) 1502〜1555
堺茶道の祖といわれる茶人。堺の皮革商信久の子で村田珠光の流れをくむ十四屋宗悟・宗陳らに茶を学び、千利休の師として知られる。漢作唐物茶入「みおつくし」(紹鴎茄子)や松島茶壺など数々の天下の名物を所持し、侘茶(わびちゃ)の完成に尽力する一方で三条西実隆に学んだという連歌にも堪能であった。一閑居士・大黒庵とも称す。
立入宗継(たてり むねつぐ) 1502〜1555
六角氏に属した近江立入城主宗長の子で、禁裏の金米の出納や貴重品の保管を司る御蔵職(みくらしき)を務めた。やがて信長との結びつきが強くなり、石山合戦時には和平調停に奔走して活躍した。
知恩寺岌州(ちおんじ ぎゅうしゅう) ? 〜1592
陸奥会津の出身で諸国を行脚、京都百万遍知恩寺二十九世岌善に帰依し、その没後三十世知恩寺住持となる。朝廷から紫衣を賜るなど信頼も厚く、特に上杉謙信と朝廷間の仲介役として活躍、謙信の関東出兵時にも同行した。
茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)1542〜1596
表向きは京の呉服屋だが、実は中島清延という家康の隠密といわれ、諜報活動に従事した。本能寺の変の際にはいち早く堺にいた家康にこれを報じ、世に言う伊賀越えの際にも私財を散じて土寇から家康を守った。後には朱印船貿易にも従事した。
朝山日乗(ちょうざん にちじょう) ? 〜1577
出雲国出身の天台僧(日蓮僧とも)。キリスト教を嫌い、1569年信長の面前で修道士ロレンソとの宗論に応じるが、敗れて激昂しロレンソに刃を向けて信長に一喝されたという。後、毛利家との外交にも活躍した。
津田宗及(つだ そうぎゅう) ? 〜1591
堺の商人で「天王寺屋」の屋号で知られる豪商。初め信長、後に秀吉に茶頭として仕えた。茶の三宗匠の一人で千利休とともに秀吉の信用厚く重用され、北野大茶会を主催したことで知られる。
徹岫宗九(てっしゅう そうきゅう) 1480〜1556
京都大徳寺住持。後奈良天皇から普応大満国師の号を賜る。天文二十二年、上洛した長尾景虎は徹岫のもとに参禅し衣鉢を授かり三帰五戒を受け、法号宗心を与えられた。示寂年は弘治三年ともあるが、辞世の偈「殺仏殺祖 遊戯神通 末期一句 猛虎舞空」を残した。
天室光育(てんしつ こういく) 1470〜1563
越後林泉寺第六代住持。上杉謙信が幼時林泉寺に預けられた際、その養育に当たる。謙信に深く信頼され、弘治二年に謙信が国政に嫌気がさして一時出奔した際にも、その理由をしたためた書を天室に送り、家臣に説明するよう求めたと伝えられる。
永田徳本(ながた とくほん) 1513〜1630
武田信虎に永く仕え、甲斐国内で一所に定住せず牛の背に乗って薬を売り歩き、どんな高貴な身分の者にも「一服十八文」を貫き通したと伝えられる戦国放浪の名医。特に貧者には親切で、どこへでも往診したという。
名古屋山三郎(なごや さんざぶろう) 生没年不詳
歌舞伎役者。非常な美男子で一説に出雲の阿国の夫といわれるが、実在したかどうかは定かではない。ただ、織田信次の孫で通称久右衛門という同名の蒲生氏郷家臣が実在しているが、彼が歌舞伎役者になったという資料はなく、混同される可能性がある。
南光坊天海(なんこうぼう てんかい) ? 〜1643
慈眼大師。前身および出自は不明の、徳川家康・秀忠に非常な信任を受けた天台僧。政治などにも関与し、東叡山寛永寺を建立した。家康が東照大権現と呼ばれるのは、天海がその政治力を生かして勅許を実現させたからだといわれている。
二条尹房(にじょう これふさ) 1497〜1551
公卿、藤原氏。父は関白尚基。永正十五年に正二位右大臣・関白・氏長者となり、大永二年には従一位に昇る。同五年に関白を辞し、享禄元年には備前へ下向。天文三年に関白職に還任するが、五年に辞す。のち周防の大内義隆のもとへ身を寄せるが、陶隆房(晴賢)の乱に巻き込まれ同地で没した。
二条良豊(にじょう よしとよ) 1536〜1551
公卿、藤原氏。関白尹房の二男。天文十八年に正五位下左近衛少将、ついで左近衛中将を任ぜられた。同十九年従三位、二十年には正三位に昇叙。父尹房とともに大内義隆のもとへ身を寄せるが、陶隆房(晴賢)の乱に巻き込まれ同地で没した。
長谷川宗仁(はせがわ そうにん) 1539〜1606
堺の商人とも言われるが詳細は不明。画家や茶人としても知られる。はじめ信長に仕え、本能寺の変の際にはいち早く飛脚を走らせ、これを備中の羽柴秀吉に通報した。後に秀吉の下で直轄領の代官など吏僚として活躍したという。
長谷川等伯(はせがわ とうはく) 1539〜1610
能登七尾の出身で、本姓は奥村と伝えられる。水墨画の大家・雪舟五代を自称した画家。当時の主流であった狩野派とは異なった画風・長谷川派の祖となり、画壇に多大な影響を与えた。「松林図屏風」や「楓図」で名高い。
八条宮智仁親王(はちじょうのみやともひとしんのう)1579〜1629
誠仁親王の第五皇子で後陽成天皇の弟宮にあたる。祖父は正親町天皇。桂宮または桂光院と呼ばれ、後に豊臣秀吉の猶子となり、桂離宮を贈られたことで知られている。
林羅山(はやし らざん) 1583〜1657
多数の号をもって呼ばれるが、中でも「道春」の名で広く知られている。藤原惺窩門より出た朱子学の大家で、徳川家康の信任が厚く金地院崇伝と共に黒幕的存在といわれた。豊臣家を滅亡させるきっかけとなった方広寺鐘名事件のこじつけ解釈は、羅山が中心となってなされたという。
伏見宮貞康親王(ふしみのみやさだやすしんのう) 1547〜1568
伏見宮第八代当主で邦輔親王の第四皇子。正親町天皇の猶子となり、親王宣下を受けた。歌集「貞康親王百首」を著したが、若くして世を去った。
藤原惺窩(ふじわら せいか) 1561〜1619
播磨細川庄の生まれで冷泉為純の二男。近世儒学の大家で、徳川家康や後陽成天皇に儒学を進講した。門下に石田三成をはじめ多数の大名や公家を持つ。
文之玄昌(ぶんし げんしょう) 1555〜1620
島津義久・義弘・家久に仕えた学僧。号は南浦、別に懶雪・狂雲とも号す。弘治元年に日向国飫肥南郷の外浦に生まれ、加治木安国寺・国分正興寺住職を経て鹿児島大龍寺の開山となる。島津家の政治や外交などにも関与し、文教の振興に努めた。鉄砲の伝来を記した「鉄砲記」(「南浦文集」所収)の撰者としても知られ、「南浦文書」「日州平治記」などを著した。
鳳山和尚(ほうさん おしょう) 生没年不詳
島津家に仕えた学僧。明釣と号す。山川に生まれ、文禄役の際には島津家の陣僧として従軍、義弘の命令や手紙はすべて鳳山の手になったといわれる。帰国後は禄高三十石を与えられ大隅椿窓寺中興の開山となり、晩年は黒川岬の鳳山軒で過ごした。ここで家久が詠んだ「浪のおりかへる錦は磯山の梢にさらす花のいろかな」から鹿児島湾の別称・錦江湾の名が起こったとも言われる。
牡丹花肖柏(ぼたんか しょうはく) 1443〜1527
中院通淳の子と伝える連歌師また歌人で夢庵、弄花軒と号す。連歌を宗祗に、和歌を飛鳥井雅親に、古典を三条西実隆に学ぶ。応仁の乱前後から摂津池田に住み、晩年堺の紅谷庵に移り住んだ。宗祇から古今伝授を受け(堺伝授)、これを南都の饅頭屋林宗二に伝えた(奈良伝授)。角に金箔を塗った牛に乗って往来したといわれる一方、花を弄び、香りにこだわり、酒を愛したという風流人。
本願寺光教(ほんがんじ こうきょう) 1516〜1554
証如上人。浄土真宗石山本願寺第九代実如の孫。父円如が早く没したため十歳で第十代宗主となり、大永七年には前関白九条尚経の猶子となった。天文元年に日蓮宗徒と六角定頼により山科本願寺が焼かれ、以後大坂石山本願寺へ本拠を移す。上杉謙信・尼子晴久・大内義隆らと親交を結び、勢力を拡大した。
本願寺光佐(ほんがんじ こうさ) 1543〜1592
顕如上人。浄土真宗石山本願寺第十代証如の子で第十一代宗主。戦国期の反信長勢力の中心的存在で、十年間にわたる石山戦争で信長と互角に渡り合ったが、ついには正親町天皇の勅命を受け降伏に近い和睦。後に秀吉の命で寺を大坂から京七条堀川に移した。
本願寺光寿(ほんがんじ こうじゅ) 1558〜1614
教如上人。顕如の子で本願寺第十二代宗主。石山合戦の際には最後まで抗戦を主張し和睦に反対したという。秀吉に対抗し、為に本願寺は東西に割れた。
松永貞徳(まつなが ていとく) 1571〜1653
連歌師・松永永種の子で、戦国の梟雄・松永久秀の孫にあたる。藤原惺窩や里村紹巴らに師事し、豊臣秀吉の右筆を務めた時期もあったという。また古典注釈に携わり、「和句解(わくげ)」という語源研究書も著した。寛永期の歌壇を代表する貞門派俳諧の祖。
曼珠院覚恕(まんじゅいん かくじょ) 1571〜1653
比叡山第166世天台座主。正親町天皇の第一皇子で正親町天皇の異母兄。信長の比叡山焼き討ちの際には山上にいなかったが、後に責任を問われて座主を逐われた。和歌にも堪能で多くの歌集を残した。
曲直瀬道三(まなせ どうさん) 1507〜1594
本姓は堀部氏。今日の生まれで後に下野足利学校に遊学、同地で知り合った医師田代三喜に医学を学んだ。天下の名医として名高く、天皇・将軍や大名などを数多く診察。京に医塾啓迪(けいてき)院を開設して多くの弟子を教育、自らは医術書「啓迪集」を著した。信長からは名香蘭奢待を拝領したことでも知られる。
木食応其(もくじき おうご) 1537〜1608
高野山の僧。興山寺・青厳寺を建立したのをはじめ、多くの寺院の再興に尽力した。秀吉の侵攻時には高野山全山を代表して交渉に当たったが、秀次事件の際には権力の前には彼をかばいきれず、切腹させてしまうことになる。
施薬院全宗(やくいん ぜんそう) 生没年不詳
宗忠の子で京都の医師。初め比叡山の僧だったが、元亀二年の信長による比叡山焼き討ち以後還俗、曲直瀬道三に師事して医術を習得し、豊臣秀吉の侍医となる。比叡山復興に尽力し、朝鮮役の際には秀吉に従い肥前名護屋へ赴いた。
ヤジロウ(やじろう) 生没年不詳
初め薩摩の武士でアンジロウ、アンジェロとも(Angero)。日本人初のキリシタンという。天文十七年、罪を犯してマラッカ(マレーシア)に逃れていたが、ポルトガル商人の案内で同地に滞在中のザビエルのもとを訪ねて日本の情報を提供。ゴア(インド)で日本人初の洗礼を受けた。洗礼名パウロ・デ・サンタ・フェ。彼が気に入ったザビエルは日本へ向かうことを決意し、ヤジロウも案内役として同行。ザビエルが島津貴久から布教許可を得た際の通訳を務めた。
安井道頓(やすい どうとん) ? 〜1615
河内の町人で、巨額の私費を投じて大坂城横に運河を掘り、これが彼の歿後に「道頓堀」と呼ばれて親しまれ、現在も大阪ミナミの繁華街の中心に位置する。道頓は大坂の陣の際に入城し、落城と共に自害した。当時堀は建設中であったが、事業は一族に引き継がれて無事完成した。
山科言継(やましな ときつぐ) 1507〜1579
公卿。言綱の子で正二位(のち贈従一位)権大納言。戦国期の良質の資料である50年にもわたる日記「言継卿記」を著した。織田信定・信秀親子に和歌や蹴鞠を伝授したこともあり、剣聖・上泉信綱など各界の名士たちと親交があった。
山科言経(やましな ときつね) 1543〜1611
言継の次男で権中納言。1585年勅勘を被り摂津に出奔し、許されて帰洛した後は徳川家康や豊臣秀次に扶持を受けたが、秀次事件に連座して再び出奔した。医学にも通じ、「言経卿記」を著した。
山上宗二(やまのうえの そうじ) 1544〜1590
堺の茶人で薩摩屋瓢庵と号す。千利休の愛弟子で、茶堂として信長のち秀吉に仕えた。毒舌家として知られるが、それが災いして天正十一年以降追放され、小田原北条氏に客分として仕え茶を広めた。秀吉の小田原征伐時に千利休を介して一時帰参するが、程なく秀吉によって処刑された。「茶器名物集」「山上宗二記」などの著書がある。
吉田兼見(よしだ かねみ) 1535〜1610
京都吉田神社神主の神道家。兼右の子ではじめ兼和と称したが1586年兼見に改名。明智光秀と親しかったこともあり、本能寺の変の後は一時窮地に陥った。良質資料「兼見卿記」を著したことで知られる。
和久宗是(わく そうぜ) 1535〜1615
通称又兵衛、三好氏・将軍義昭・織田信長に仕え、のち豊臣秀吉の右筆を務める。秀吉没後は伊達政宗に仕え黒川郡大谷邑に住んだ。大坂の陣の際に伊達家を致仕して入城、夏の陣で東軍に突入し討死した。
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