第1位 島津家(忠良・貴久・義久・義弘)
日本の戦国時代において、名君続出の大名家といえばまず島津家があげられよう。後に「島津に暗君なし」と言われることになるが、これは決して誇張表現ではない。
島津家は鎌倉以来の名家であったが、室町時代後半には本家と分家の対立が激しくなってきた。その時分家の伊作島津家に忠良が登場し、彼の策謀から子の貴久を島津本家に送り込むことに成功したのだが、ここから「薩摩隼人」として広く知られている島津の家風が生まれてくるのである。 島津忠良は後に日新斎(じつしんさい)と号し、島津家の心得とも言うべき「いろは歌」を作り家臣たちを教育した。忠良はこういった功績から薩摩人の間では後に神格化されている。
さて、後を継いだ貴久は政治に力を入れ着々と足場づくりを固めていったが、分家やまわりの豪族たちとの抗争は絶えなかった。貴久は陣頭に立って果敢に攻め込んでゆくタイプではない。合戦の際は彼の4人の優れた子たちの力が大きかったのである。
長男の義久、次男の義弘、三男の歳久、四男の家久とそれぞれ個性的な子たちに恵まれた。義久は軍政両面、特に統率能力や状況判断力に優れ、義弘は戦国屈指の猛将で無敗の強さを誇っていた。歳久は知謀に富み、家久も勇猛無比な武将として知られ、かの沖田畷の合戦では龍造寺隆信5万の大軍にわずか三千人あまりで戦いを挑み、撃破した上にその首を挙げている。 【Photo:島津家歴代当主が眠る福昌寺跡(鹿児島市)】
義久の代になって秀吉軍と衝突するが、彼は家中の反対を押し切り、かなわぬと知るやあっという間に頭を丸めて降伏したのである。これは臆病卑怯な行為ではない。彼は島津家の存続を第一に考え、最善の方法を瞬時に考えて行動したのである。後に関ヶ原の際、行きがかり上やむなく西軍についたが、戦後素早く詫びを入れ本領を安堵している。これも義久の判断と指図である。とにかく政治力に優れた人物であった。
義弘の代になっても兄弟仲はすこぶるよく、こういう家は戦国では非常に珍しい。そのおかげで戦国の荒波をうまく乗り切れたのであろう。剣術においても東郷重位により薩摩示源流が広まり、その強さは後々まで天下にとどろき渡った。
「島津に暗君なし」…この言葉には誰も異論はないと思う。
第2位 真田家(幸隆・昌幸・信之・幸村)
ここに真田家の名を挙げるには、やや首をかしげる方もおられるのではないかと思われる。真田家は関ヶ原にて東西両軍に分かれ、昌幸と幸村は九度山へ流される。つまり敗者である。しかし、小国の領主として謀略の限りを尽くし、幾多の苦難を乗り切った昌幸の手腕は評価に値すると私は考えているので、敢えて挙げさせていただいた次第である。
幸隆に始まる真田家は、まさに謀略家と呼ぶにふさわしい小大名家であった。幸隆は知謀に富み、武田信玄のもとで山本勘助と並ぶ軍師であった。彼の計略で、長年苦汁を飲まされてきた北信濃の強豪・村上義清を追放することに成功する。以来彼は信玄の信頼あつく、武田家中に確固たる地位を築いてゆく。 昌幸は幸隆の三男で、はじめ武藤喜兵衛と名乗り、信玄の小姓をつとめていた。長篠合戦で主家が弱体化し、やがて勝頼が信長麾下の武将・滝川一益の手により自害に追い込まれて主家は滅亡した。ここから昌幸の活躍が始まる。
昌幸は家康嫌いであった。しかし、北条・上杉・徳川と大勢力に囲まれた上州の地を守るには、どこかの傘下に入らなくてはならない。ここで昌幸は敵対していた上杉家に頭を下げる。当時の上杉当主は景勝であったが、今までのいきさつは水に流して昌幸の頼みを聞き入れた。このあたりに潔い上杉家の家風が現れている。しかし、次男の幸村(信繁)は人質として春日山城へ送られていった。 しかし北条家の圧力の前に、今度は秀吉に助けを求める。これにより幸村は今度は秀吉のもとへと人質にゆくことになるのである。このとき起こった北条軍による名胡桃城奪取事件を口実に、秀吉は大軍を動員し北条氏を滅ぼすことになる。また、幸村は大坂へ行った際に大谷吉継らと知り合い、後に吉継の娘を妻にめとることになる。
昌幸の長男の信之(当時は信幸)は徳川家重臣・本多忠勝の娘を妻として迎えた。この時すでに「犬伏の別れ」で有名な、関ヶ原で親子が東西に分かれて戦った下地は出来上がっていたのである。 関ヶ原の戦いでは昌幸と幸村は上田城に籠城し、徳川秀忠の大軍にびくともせず手こずらせて日数を稼いだ。しかし西軍は負け、親子とも斬首寸前の所を信之や舅の本多忠勝らの必死の嘆願で、高野山配流に減免された。 【Photo:上田城に残る真田石(左の大石)】
昌幸は配所で寂しく没したが、幸村は苦節に耐え、大坂の陣の際秀頼に依頼され入城する。このときの幸村の活躍は冬の陣・夏の陣ともあまりにも有名で、ここではあえて触れないことにする。しかしその幸村も夏の陣にて父譲りの知謀の限りを尽くし、赤備えの騎馬軍団を率いて敵本陣に突入し家康を敗走させ、一時は自害を覚悟させるほどに追いつめて奮戦したが、とうとう力つきて戦死する。またその嫡子大助も秀頼に従って大坂城において自害する。 【Photo:真田庵にある真田昌幸の墓(手前左の石塔)】
信之の心中はどのようなものだったであろうか。しかし彼は徳川家に忠節を尽くし、度重なる幕府の嫌がらせや減封とも言える国替え(上田から松代へ)にも耐え、家を守り抜いてゆくのである。
93歳の長寿を保ち、まぎれもない名君として民に慕われ治政に励んだ初代真田松代藩主・信之こそ、真田家一の名君であったような気がする。
第3位 毛利家(元就・吉川元春・小早川隆景)
西国の覇者として広く知られる毛利家も、はじめは安芸国吉田郡山に居を構える小豪族であった。大内氏に属していたが、義隆の重臣・陶晴賢(すえはるかた)の乱により義隆が自害し、大内氏は滅亡した。これより、「謀略の塊」と言われた元就が歴史の表舞台に登場してくるのである。 【Photo:吉田郡山城下にある元就の像(広島県安芸高田市)】
まずは世に名高い陶晴賢との厳島の合戦。数倍する大軍を相手にしては勝利はおぼつかない。元就は計略をめぐらし、厳島へ敵の大軍をおびき寄せる。これは敵のスパイを逆利用して成功させたものである。 さらに瀬戸内の海上に勢力を持つ村上水軍の助けを得て、見事に奇襲を成功させ陶晴賢の大軍を破り、その首を取ったのである。ここから元就の活躍が始まる。
彼には優秀な子がいた。長男隆元・次男元春・三男隆景である。隆元は残念ながら早世したが、元春は吉川家の養子となり山陰地方の固め役に。また、隆景は名家小早川家の養子となり、山陽地方の固め役として父元就から期待された。これがいわゆる「毛利両川体制」とよばれるものである。 元春は軍事面で、隆景は外交・政治面でと元就を助けた。この兄弟も性格は全く異なりはするが、仲はきわめてよかった。元就が3人の子を前に諭したとされる「三矢の訓」は有名だが、残念ながらこの話は後世の創作である。しかし、それはともあれ兄弟仲がよかったことは間違いない。 【Photo:隆景広場より見た三原城跡に残る石垣(広島県三原市)】
もっとも知られている話の一つとして、本能寺の変の際に毛利家のとる方針についてのことがある。当時秀吉は高松城を水攻めにし、城将清水宗治を切腹させ和睦の扱いとし、京へ引き返した。この瞬間毛利氏に信長死すの情報が飛び込んだのだが、追撃を主張してやまない元春に隆景はこう言ったという。
今我らが秀吉の後を追えば少なからず打撃を与えられるであろうが、問題は彼が天下を取る人物かどうかである。私はそうであると見た。とすればやがては秀吉と一戦せねばならず、そのとき我が毛利家に勝算はあるかどうか?答えは否である。しからばここは黙って見過ごし、恩を売りつけておくに限る。やがてはそれが当家にとって非常に大きく物をいうであろう…。 そして、隆景の予言通りに事は進んでいくのである。このとき元春は納得できない顔をしていたが、「隆景がああまで言うならそれに従おう」と潔く同意したと言われる。余談だが、元春は後に病死するまで一生秀吉嫌いで通したという。 【Photo:吉川氏居館跡にある元春・元長父子の墓(広島県北広島町)】
本家の人間ではなくとも、このように優れた人材を身内に持つ家は強い。関ヶ原後に大きく領土は減らされた。改易されても文句の言えない立場であった。しかし、毛利家はしっかりと残った。
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