愛州移香斎(あいす いこうさい) 1452〜1538
伊勢の熊野海賊衆の出身と伝えられ、通称太郎左衛門、本名は久忠(惟孝・勝秀とも)、後に日向守を称す。日向国鵜戸神宮に参籠したところ、霊夢を得て奥義を悟り剣法愛州陰流を創始したと伝えられる。子の元香斎宗通とともに、剣聖・上泉信綱の師として知られる。諸国を武者修行し、晩年は再び日向を訪れ鵜戸明神の神職となり日向守を称したと伝えられる。
愛州元香斎(あいす げんこうさい) 1519〜1590
移香斎久忠の子で通称小七郎、本名は宗通(惟脩とも)、美作守を称す。永禄七年に佐竹義重に陰流の奥義を伝授、これより父の移香斎とともに常陸久慈郡太田城にあった義重のもとへ、剣術師範として出仕したという記録がある。一説に、のち従来称していた「陰流」を「猿飛陰流」と改めたとも。晩年は常陸那珂郡平沢村に所領を賜り、姓を平沢氏に改めたという。
足利義輝(あしかが よしてる) 1536〜1565 ☆
室町幕府第13代将軍。上泉信綱に剣を学び「剣豪将軍」として有名だったが、当時畿内を牛耳っていた三好氏と対立、三好長慶の家臣・松永久秀らに御所を急襲され、後まで語り継がれる奮戦の後大勢によってたかって討ち取られた。
伊東一刀斎(いとう いっとうさい) 生没年不詳
本名は景久、伊豆国生まれの剣術一刀流の祖。鐘捲自斎に神陰流を学び、後に独立。ただ2人の弟子であった小野善鬼と御子神典膳に下総小金原で勝負させ、勝った典膳に一刀流秘伝を相伝した。なお、この典膳は後の小野派一刀流の祖・小野忠明である。
稲富祐直(いなどめ すけなお) 1552〜1611 ☆
元は丹後忌木城主の一色家臣で稲富流砲術の祖。姓は「いなとみ」とも読む。鉄砲の達人で主家滅亡後は細川忠興・松平忠吉を経て尾張義直に仕え、江戸幕府の砲術指南役となる。近江国友村の鉄砲鍛冶集団の組織にもたずさわったとされる。
井上正継(いのうえ まさつぐ) 生没年不詳
通称九十郎外記(げき)。1614年に徳川家康に鉄炮術師として仕えた、砲術井上流(「外記流」ともいう)の祖。
岩間小熊(いわま こぐま) 生没年不詳
諸岡一羽門下の剣豪。師のもとを去った根岸兎角を追って江戸へ行き、常磐橋上での果たし合いに勝つ。敗れた兎角は江戸を去り、代わって小熊は兎角の道場に居座り多数の門人を抱えるようになるが、兎角の門人達に騙し討ちに遭い殺害された。
小笠原長治(おがさわら ながはる) 1570〜 ?
遠江高天神城主小笠原長忠の弟で、後の源信(心)斎。高天神城落城後は小田原北条氏の庇護下にあったが、北条氏滅亡後は武者修行の放浪の旅に出る。上泉信綱・奥山休賀斎らに新陰流を学び、真新陰流を興した。
奥山公重(おくやま きみしげ) 1525〜1602
号は休賀斎。上泉信綱に新陰流を学び、1564年三河奥山明神に祈願したところ、神託により奥義を得たと伝えられる。のち、研鑽工夫を重ねて新陰支流の奥山流を興す。家康にも剣術を指南したとされる剣豪。
小野善鬼(おの ぜんき) ? 〜1592
前身は淀川の船頭。一刀流の祖・伊東一刀斎と出逢い、師事した一番弟子。以来、一刀斎に申し込まれた試合はみな善鬼が立ち会って全て勝ったという。1592年(1588年説もあり)下総小金原の決闘で弟弟子の御子神典膳に敗れて落命。
小野忠明(おの ただあき) ? 〜1628
前身は御子神典膳吉明という里見義康の家臣で、武者修行に出た際、伊東一刀斎と出逢い、師事。下総小金原の決闘で兄弟子小野善鬼を倒し、一刀斎より印可道統を受け継ぐ。後に家康に仕え小野次郎右衛門忠明と改姓、小野派一刀流の祖となった。二代将軍秀忠の剣術指南役として知られる。
片山久安(かたやま ひさやす) 1575〜1650
伯耆守。林崎甚助重信に抜刀術を学び、自ら心貫流(片山伯耆流)を開く。豊臣秀次に召し出されて仕え、その没後は豊臣秀頼の兵法指南役に抜擢された。豊臣家滅亡後は岩国城主吉川広家に仕え、広家の子広正の兵法指南役となった。
鐘捲自斎(かねまき じさい) 生没年不詳
名は通家あるいは通宗とも。遠州秋葉の生まれとされ、剣術鐘捲流(外他流とも)の祖。小太刀の名人・富田勢源門下高弟(一説に富田治部左衛門景政門下とも)であったが、やがて中太刀を得意とする鐘捲流を打ち立てて独立。門下に伊東一刀斎景久や佐々木小次郎ら錚々たる剣豪がいる(異説あり)。
上泉信綱(かみいずみ のぶつな) 1508〜1582 ☆
上杉家家老の箕輪城主長野業正を助けた上州大胡城主。剣術新陰流の祖として知られ、門下から多数の剣豪流派を輩出し、剣聖と呼ばれた。槍術にも堪能で、上州長野家十六槍の一人としても知られる。長野家滅亡後は武田信玄に招かれたが応ぜず、以後は一介の剣士として生きた。竹刀の発明者。
川崎時盛(かわさき ときもり) 生没年不詳
通称は鑰之助(かぎのすけ)。剣術東軍流(東流とも)の祖。一説には東軍流開祖は東軍権僧正という天台僧で、時盛は二代目とも伝えられる。越前朝倉家御用人の子に生まれ、はじめは鞍馬八流の達人であった父に、後に小太刀の名人・富田勢源のもとで剣と槍を学んだという。
北畠具教(きたばたけ とものり) 1528〜1576 ☆
多芸御所と呼ばれた伊勢最後の国司。塚原卜伝門下の剣豪大名として名高く、将軍足利義輝とも交わりがあったと伝えられる。後に信長の侵攻に抗しきれず、和睦したものの二男の信雄に家を譲らされ、程なく信長の命で送り込まれた旧家臣達の手により居館の三瀬館において暗殺された。
木村友重(きむら ともしげ) 生没年不詳
通称は助九郎。大和柳生家の家臣で柳生宗矩に師事して新陰流を学び、奥義に達したとされる宗矩の筆頭高弟。のち駿河大納言徳川忠長に仕え、続いて紀伊頼宣に仕えた。
草深甚四郎(くさふか じんしろう) 生没年不詳
加賀国草深村(現石川県能美郡川北町)生まれの剣豪。一説によると塚原ト伝来遊の際に立ち会い、剣では敗れたが槍では勝ったと伝えられる。その他の事績は不明。
古藤田俊直(ことうだ としなお) 生没年不詳
号は唯心(ゆいしん)。元は北条氏政・氏直の家臣で、伊東一刀斎の二番弟子。主家滅亡後は美濃大垣の戸田氏信に仕えた。後に古藤田一刀流(唯心一刀流)の祖となった剣豪武将。
斎藤勝秀(さいとう かつひで) 1550〜1587
常陸国井手村の生まれの剣豪で名は忠秀ともいい、通称は伝鬼(輝)坊(房)。塚原ト伝あるいは新右衛門に新当流を学んだとされ、天流(天道流)の開祖として知られる。京にてその剣技が天覧の栄に浴し、井手判官を名乗る。後に郷里に戻った際、霞流の桜井霞之助と試合に及びこれを倒したことから同流の門人たちに遺恨を残す。後に霞流の門弟たちから不意の襲撃を受け、大勢に囲まれて矢で射殺された。
佐々木小次郎(ささき こじろう) ? 〜1612
剣術・厳流の達人で秘技「燕返し」を持つと伝えられる実体不明の剣豪。舟島(厳流島)決戦で宮本武蔵に敗れる。武蔵の「二天記」では越後の小太刀の名人・富田勢源門下とされているが記述に矛盾があり、他説も多数様々で詳細は不明。
佐野房綱(さの ふさつな) ? 〜1601 ☆
下野唐沢山城主豊綱の二男で昌綱の弟。剣術の達人で無双の強将と恐れられ、天徳寺了伯と号す。子のなかった甥の唐沢山城主宗綱が長尾昭長に討ち取られたとき、北条氏から跡継ぎをと考えた家中と対立し出奔、上洛して秀吉を頼り御咄衆となる。小田原攻めの際に秀吉に従い唐沢山城を落とし、それにより同城三万九千石の主となった。
信太朝勝(しのだ あさかつ) 生没年不詳
元の名を根岸兎角といい、新当流塚原ト伝の高弟・師岡一羽に剣を学んだが、一羽が晩年に病を得て再起がおぼつかなくなると見るや突如小田原へ逐電、自ら剣術微塵流を興す。しかし江戸常磐橋(浅草口橋)で旧弟子の岩間小熊との決闘に敗れ、改名して西国へ赴いて黒田長政の家臣となり大和守を称した。
庄田教高(しょうだ のりたか) 生没年不詳
通称は喜左衛門。大和柳生家の家臣で新陰流を学び、奥義に達したとされる遣い手。やがて自ら新陰支流である庄田心流を創始し、後に越後高田城主・榊原忠次に仕えたと伝えられる。
神後宗治(じんご むねはる) 生没年不詳
元は上州箕輪城主長野業政の家臣で、通称伊豆守。上泉信綱に新陰流の剣を学び、後に母方の実家の姓をとって鈴木意伯と称す。信綱と別れた後に神後流の祖となり豊臣秀次の剣術指南役となるが、晩年の消息は不明。
善吉(ぜんきつ) 生没年不詳
俗名は赤坂弥九郎(雅楽助)。十七歳の時に天真正自顕流三世嫡伝となるが、父の仇討ちの本懐を遂げた後出家して京都天寧寺に入り善吉和尚を名乗る。ここで島津義久(一説に義弘あるいは忠恒=家久とも)に従って上洛中だった東郷藤兵衛重位と知り合い、秘伝を伝授。後に重位は薩摩示現流の祖となった。
高田為長(たかだ ためなが) ? 〜1685?
通称三之丞。元はタイ捨流を学んだ西国武者とも織田秀信の家臣足達庄蔵ともいう。武者修行中に駿府で柳生兵庫介利厳と立ち会い、その技量に圧倒され即時入門随身したと伝える。立ち会い時の「おいとしぼう」(「おいとほしや」の訛)という掛け声が癖で、これを言い終わらぬうちに相手は皆打たれていたという。兵庫介の高弟の一人で後に甫斎と号し、兵法をもって尾張家国家老成瀬隼人正に仕え犬山城下に住した。
田付景澄(たつけ かげすみ) 生没年不詳
通称兵庫助。近江田付村出身の砲術田付流の祖。1613年に徳川家康に仕え、その鉄砲術は名人と謳われた。著書に「求中集」「鉄炮打方」がある。
田宮長勝(たみや ながかつ) ? 〜1645
対馬守。紀伊藩田宮流居合術の祖。元は池田利隆の家臣で、大坂冬の陣の際には摂津尼ヶ崎城を任された。大坂夏の陣の際の活躍が徳川家康に認められ、十男頼宣付けとなり八百石の知行を与えられた。
塚原卜伝(つかはら ぼくでん) 1489〜1571
本名は新右衛門高幹(たかもと)、前名吉川朝孝、後に土佐守。剣術新当流の開祖で、秘技「一の太刀」を武器に生涯一度も負けなかったという。武田信玄・足利義輝・北畠具教など名将との交際も広く、剣聖上泉信綱と並ぶ戦国期剣術界の巨星。武州川越における槍の名人梶原長門との立ち会いが有名。門下から多数の剣豪を輩出した。元亀二年三月十一日、郷里の鹿島において門人松岡兵庫助則方の家で死去した。
東郷重位(とうごう しげかた) 1561〜1643 ☆
島津氏家臣で通称藤兵衛、長門守のち肥前守を称す。薩摩坊泊地頭で剣術薩摩示現流(初期は日天真正自顕流)の開祖。義久(一説に義弘あるいは忠恒=家久とも)に従って上洛した際、京で天寧寺の善吉和尚(俗名赤坂弥九郎)と出会って剣の奥義を学び、薩摩へ帰って修練に励み自顕流(後に示現流)を創始した。義久・家久に仕え、薩摩藩および家久の剣術指南役になった剣豪武将。
富田重政(とだ しげまさ) 1554〜1625 ☆
前田利家家臣。富田流剣術の達人で「名人越後」の異名を持つ加賀藩の剣術指南役。利家・利長・利常三代に仕え、武将としても優れた人物で、武州八王子城攻めや大坂冬の陣でも活躍。剣豪武将としては破格の13500石に封ぜられた。
富田勢源(とだ せいげん) 1523〜 ?
越前の中条流剣豪。眼疾のため家督を弟の景政に譲り、富田流を創始した小太刀の名人。美濃に立ち寄った際、当時の国主斎藤義龍の剣術師範・梅津某との立ち会いが知られている。
橋本一巴(はしもと いっぱ) 生没年不詳
青年期の織田信長の鉄砲指南役として知られる、砲術一巴流の祖。1558年7月、信長が浅野村を攻めた際に敵の弓達者を二ツ玉の鉄砲で仕留めたとあるが、これ以外の事績は不明。
林崎重信(はやしざき しげのぶ) 1548〜 ?
通称は甚助(じんすけ)。抜刀術・神夢想林崎流(単に林崎流とも)の開祖。相模に生まれた重信は諸国へ武者修行中、出羽林崎明神(山形県北村山郡)に参詣中に抜刀の奥義を悟って一流を打ち立てたと伝えられる。
疋田景兼(ひきた かげかね) 1527〜1605
通称文(豊)五郎、号は小伯(虎伯とも)。晩年には栖雲斎(せいうんさい)を名乗る。上泉信綱の甥(異説あり)にあたり、当時畿内随一と評判だった柳生宗厳と三度立ち会い全て勝ったと伝えられる。後に豊臣秀次の剣術師範を経て豊前中津細川家のち肥前唐津寺沢家に仕えたという。
樋口定次(ひぐち さだつぐ) 生没年不詳
通称又七郎。奥州相馬の住人・慈音(俗名は相馬四郎義元)を祖とする念流宗家八世。上州馬庭村に住んでいたことから馬庭念流とも呼ぶ。念流七世友松氏宗に師事、1598年正式に道統を受け継いだ。天流の村上権左衛門との高崎城下烏川の決闘に勝つが、それ以来消息が途絶えた。
土子泥之助(ひじこ どろのすけ) 生没年不詳
常陸国江戸崎に住む諸岡一羽門下の剣豪で、名は「土呂之助」とも書く。師の没後は江戸崎でそのまま道場を続け、やがて門弟の水谷八弥に後を任せて、自らは遠州横須賀城主・大須賀康高に仕えた。門人に家所伊右衛門がいる。
日置正次(へき まさつぐ) 生没年不詳
通称弾正、道号は道以または威徳。晩年には剃髪して瑠璃光坊(るりこうぼう)と名乗る。伊賀国柘植郷の出身で(大和説もあり)、その弓術をもって諸国を歴遊し近江六角氏の内戦にも参加した記録がある。日置流弓術の祖。
宝蔵院胤栄(ほうぞういん いんえい) 1521〜1607
僧名覚禅坊の奈良興福寺塔頭(たっちゅう)・宝蔵院院主で、十文字鎌槍を独自に考案したと伝えられる宝蔵院流槍術の開祖。俗称は伊勢伊賀守。刀術もひとかどのもので、友である柳生宗厳とともに上泉信綱に師事した。門下に「笹の才蔵」の異名をとる可児才蔵吉長らがいる。
真壁氏幹(まかべ うじもと) 1550〜1622
はじめ結城氏、のち佐竹氏に属した常陸国真壁城主で通称小次郎、のち安房守を称す。出家後は暗夜軒闇礫斎または道無と号す。塚原卜伝に剣を学び大力無双といわれた剣豪で、一丈もの長さの鉄鋲を打ち付けた六(八)角棒を振り回し、合戦の際には敵兵の馬もろともなぎ倒したという。
松本尚勝(まつもと なおかつ) 1468〜1524
通称備前守。初め守勝、後に政信。長享二年に上京した際、将軍義尚の諱を拝領し尚勝と改めた。鹿島神宮の祝部(ほうりべ)の出で、常陸大擾(だいじょう)家の宿老の一人。飯篠長威斎家直に天真正伝神道流を学び、後に鹿島神流を創始して独立。塚原ト伝の極意として名高い「一ノ太刀」は、実はこの尚勝によって生み出され、彼の養父塚原安幹を経て伝わったという。大永四年、高間ヶ原の戦いで討死した。
丸目長恵(まるめ ながよし) 1540〜1629 ☆
蔵人佐。晩年には徹斎(鉄斎)を名乗る。肥後相良氏の家臣で16歳の時に大畑合戦で初陣を飾る。本渡城の天草伊豆守より中条流を学び、剣聖・上泉信綱に試合を挑むが敗れて入門、以後新陰流を学ぶ。信綱が将軍足利義輝に兵法を上覧に入れた際には打ち太刀を務めた。のちタイ捨流を興す。刀術のみならず和歌や笛などにも長じていた風流人でもあり、晩年は農耕に従事したという。
壬生源次郎(みぶ げんじろう) ? 〜1603
京八流吉岡道場の門弟で、宮本武蔵との間で戦われた史上に名高い洛北「一乗寺下り松の決闘」の吉岡側名目人。わずか11歳では武蔵にかなうはずもなく、一撃で首を飛ばされたと伝えられる。
宮本武蔵(みやもと むさし) 1584〜1645
二刀流の達人で二天一流の祖。佐々木小次郎との舟島の戦いで有名な生涯無敗の剣豪。奇矯かつ傲慢な性格と伝えられ、風呂嫌いで身だしなみに欠けていたことから仕官先が見つからなかったという。しかし晩年には客分ではあったが細川忠利のもとで禄を喰んだ。著書に「五輪書」、また画家としても名高い。
師岡一羽(もろおか いっぱ) 1533〜1593
名は常成(景久とも)、通称は平五郎。美濃土岐氏四天王・師岡氏の出自で、常陸江戸崎の剣豪で塚原卜伝に新当流を学び、一巴(一羽)流の祖として知られる。晩年に癩風を病み、これを見限った弟子の根岸兎角が逐電、追った岩間小熊と江戸常磐橋で行われた決闘は有名。墓は茨城県稲敷郡江戸崎町の大念寺にある。
柳生宗厳(やぎゅう むねよし) 1529〜1606
剣術柳生新陰流の開祖。後に石舟斎を名乗る。上泉信綱が柳生を訪れた際に手合わせを申し込み、弟子の疋田文五郎にさえ手もなくひねられたことから信綱に師事。以後、研鑽を重ね秘技「無刀取り」を編み出す。
柳生利厳(やぎゅう としとし) 1579〜1650
宗厳の孫で通称兵庫助(介)、名は「としよし」とも。初め伊予守長厳を名乗り、晩年は如雲斎と号した。祖父石舟斎宗厳から柳生新陰流の正統を受け継ぎ、後に尾張徳川家の剣術指南役となる。その技量は宗矩をも凌いだと言われ、歴代の柳生一族中でも屈指の剣豪として知られる。側室は島左近の娘・珠で、珠との間に出来た子の新六は後の連也斎厳包。慶安三年正月十六日、京都妙心寺内柳庵にて没した。法名「春光院殿閑叟如雲居士」、墓は同寺塔頭麟祥院。
柳生宗章(やぎゅう むねあき) 1566〜1603
宗厳の四男で通称五郎右衛門、但馬守宗矩の兄。剣槍ともに優れたが、客分として滞在中の伯耆中村家に内紛が起き、家老の横田内膳側につき奮戦したが壮絶な戦死。一説によると数本の刀を差し、それらが全て折れるまで敵を切り倒した後に大軍の中に一人で突入していったという。
柳生宗矩(やぎゅう むねのり) 1571〜1646 ☆
徳川家康・秀忠・家光の家臣。宗厳の五男で初名は宗頼、通称は又右衛門、後に但馬守を称す。剣術将軍秀忠・家光の剣術指南役として抜擢され、家光のもとでは惣(大)目付の重職に就き諸大名を監視、ついに大和柳生一万二千五百石の大名にまで昇進した江戸柳生家の祖。
吉岡重堅(よしおか しげかた) ? 〜1613
清十郎直綱の弟で通称清次郎。1613年、禁裏での祝宴の能の最中に普段から不仲の役人只見弥五左衛門に態度をたしなめられたことに逆上、彼をはじめ多数の人々を殺傷し、駆けつけた京都所司代板倉勝重家臣の太田忠兵衛兼氏に斬られた。
吉岡直綱(よしおか なおつな) 生没年不詳
通称清十郎。吉岡憲法直元を祖とし、京にあって「けんぽうの家」と呼ばれ、代々将軍家の剣術師範を務める剣術京八流の名門吉岡家の四代目当主。宮本武蔵に試合を挑まれ、受けて立つが重傷を負ったとも打ち殺されたとも伝えられる。
吉岡直重(よしおか なおしげ) ? 〜1603
清十郎直綱の弟で通称伝七郎。兄を破った宮本武蔵に京八流家元の威信をかけて挑戦状を送りつけるが、逆に蓮華王院三十三間堂で武蔵に打ち殺されたと伝えられる。
吉田重賢(よしだ しげかた) 生没年不詳
道号は道宝、通称上野介。近江蒲生郡川守村の土豪。弓術に優れた近江六角氏の家臣で、日置弾正正次門下。1500年に日置流弓術を受け継ぎ、自ら弓術吉田流(日置吉田流)を打ち立てた。
吉田重勝(よしだ しげかつ) 生没年不詳
通称六右衛門、道号は雪荷(せっか)。弓術雪荷派吉田流の達人で、その門下には蒲生氏郷、羽柴秀長、豊臣秀次、宇喜多秀家、細川幽斎ら錚々たる顔ぶれが見られる。
吉田重政(よしだ しげまさ) 生没年不詳
出雲守。重賢の子で近江六角氏家臣。弓術吉田流(日置吉田流)を引き継ぎ、出雲派吉田流の祖となる。六角義賢に弓術を伝授したという。
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