戦国時代には大規模のものから小競り合い程度のものまで、幾多の合戦が毎日のように行われました。ここではそれらの合戦の中から、「攻城戦」に属すものを、作者の独断と偏見でピックアップして紹介します。 |
稲葉山(いなばやま)城の戦い 1567年 主要関係大名:織田信長 vs 斎藤龍興 桶狭間にて今川義元を滅ぼした信長と、斎藤義龍の子・龍興の間で行われた戦い。信長はまず三河に今川家から独立した松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、全力で美濃攻略に乗り出す。 墨俣に作戦基地の砦を設けようとして佐久間信盛や柴田勝家らに命ずるが、斎藤勢の妨害によりことごとく失敗する。ここで当時まだ軽輩の木下藤吉郎が見事にその役を果たし(墨俣一夜城)、織田家重臣への足がかりを作った。 藤吉郎は軍師竹中半兵衛の助けを借りて搦め手から攻め入り、落城の糸口をつけた。龍興は捕らえられ一命は助けられたが、長島へと落ちていった。ここに、道三以来の美濃斎藤家は滅亡した。 上田攻め(うえだぜめ) 1585年 主要関係大名:真田昌幸 vs 徳川家康 真田昌幸は当時徳川家康の傘下に属していたが、もともと家康嫌いの昌幸は次男の幸村を人質に出し、今まで敵対していた上杉景勝の傘下となった。これに怒った家康は、家臣の鳥居元忠や大久保党に命じ、上田城を攻めた。 絶対多数の徳川軍は優勢に戦いを進め、城内になだれ込むが、これは昌幸の仕組んだ計略であった。火攻め・鉄砲攻めと、いいようにあしらわれて混乱した徳川軍は神川(かんがわ)のほとりまで退却する。そこへ長男信幸(後に信之)が追い打ちをかけ、結局徳川方は大敗北を喫した。 この戦いの勝利によって、謀将・真田昌幸の名が全国にとどろいた。またの名を上田城・神川の戦いとも言う。 大坂の陣(おおさかのじん) 1614〜1615年 主要関係大名:徳川家康 vs 豊臣秀頼 徳川家康が大坂城に構える豊臣家を滅ぼす目的で仕掛けた、戦国期最終の2度にわたる戦い。1614年のいわゆる冬の陣は、家康が方広寺の鐘銘にある「国家安康・君臣豊楽」という文字に、「家康の文字を断ち切った上に、豊臣家を君として楽しむとは言語道断」と、何ともこじつけた言いがかりをつけて勃発。真田幸村らの奮戦で目算が狂った家康は、あわてて和議に持ち込む。 和議の条件では城の外堀を埋めるだけの約束が、家康の謀略によりすべての堀を埋めてしまったため豊臣側が反発、浪人を再び雇いだしたことから翌15年、再戦となる(夏の陣)。 この戦いにおいて幸村は家康本陣に肉薄し、あわやというところまで追いつめたが、あと一歩及ばず、刀折れ矢尽きて安居天神境内にて戦死する。秀頼は母・淀君とともに炎上する大阪城で自害、豊臣家は滅びた。 小谷攻め(おだにぜめ) 1573年 主要関係大名:織田信長 vs 浅井長政 信長と浅井氏の間の最終決戦。姉川の合戦で大敗して勢力の衰えた浅井氏は、朝倉義景に援軍を依頼する。二万の援軍を送り込んだ朝倉氏だったが、逆に信長の反撃を喰らい、本拠の越前一乗谷まで攻め込まれてしまう。 一族の裏切りもあり義景は自刃、朝倉氏は滅亡する。すぐ引き返した織田軍は木下秀吉の活躍でついに難攻不落の小谷城を落とし、長政は自刃、浅井氏もここに滅亡した。このとき長政が秀吉に行く末を頼んだ三人の娘が、後の歴史を大きく変えることになる。 これにより一気に所領を増やした織田氏はますます強大になり、大功を立てた秀吉は初めて城持ちの身となった。 小田原攻め(おだわらぜめ) 1590年 主要関係大名:豊臣秀吉 vs 北条氏政・氏直 いわゆる秀吉の「天下統一」の最終仕上げに当たる戦い。時勢の流れが見えない北条氏は、秀吉の再三の上洛要請にのらりくらりと言い逃れ、従わなかった。そのとき、真田昌幸との間で小さな衝突があり(名胡桃城奪取事件)、これを口実に秀吉からとがめられて小田原攻めが実行された。 いくら小田原城が天下の名城でも、後詰めもない上に、まわりを二十万以上の大軍に埋め尽くされては勝ち目はなかった。支城も次々に落とされ、ついに氏政・氏直親子は降伏開城する。 氏直は家康の女婿であった縁もあり、一命は助けられたが高野山へ配流。父氏政と叔父氏照は切腹、ここに早雲以来五代に渡って関東に覇を唱えた北条氏は滅んだ。 月山富田(がっさんとだ)城の戦い 1565〜66年 主要関係大名:毛利元就 vs 尼子義久 山陰の制覇を目指す毛利元就と、経久当時の勢力回復を目指す尼子義久との間で行われた戦い。 元就は得意の謀略を駆使して山陰の地侍たちを次々と調略し、尼子氏を孤立化させていった。その最終仕上げとして1565年に尼子氏の本拠・月山富田城を二万五千の大軍で包囲した。 義久は頑強に抵抗するが、支城を次々と落とされ、ついに降伏する。命こそは助けられたが、所領はすべて毛利氏のものとなり、事実上山陰の名族・尼子氏はここに滅亡した。 河越(かわごえ)城の合戦 1546年 主要関係大名:北条氏康・綱成 vs 足利晴氏・両上杉連合軍 関東制覇をもくろんで着々と勢力を伸ばしてきた北条氏康に対し、旧勢力の扇谷上杉朝定・山内上杉憲政・関東公方足利晴氏との間で、河越城をめぐって行われた戦いで、戦国三大夜戦の一つ。 連合軍は八万の大軍で河越城を包囲した。城主で北条家随一の猛将・北条綱成は、わずか数千の軍ではどう見ても勝ち目はなく、氏康に救援を依頼する。急を聞いて駆けつけた氏康の救援軍も一万に足らず、ここで氏康は偽の和睦を提案し、敵が油断したところを夜中に総攻撃をかけた。 これに合わせて綱成も城内より攻撃をかけたため、連合軍は大混乱して退却した。以後、両山内勢力は衰え、北条氏の関東制覇が確固たるものになっていった。 立花城の合戦 1569年 主要関係大名:大友宗麟 vs 毛利元就 1569年に毛利氏と大友氏との間で行われた、毛利氏の九州進出の命運を賭けた一大決戦。 これに先立つ1567年、大友家重臣の高橋鑑種が毛利氏に寝返って反旗を翻した。これに連動して秋月種実と立花鑑載も次々に大友氏に反旗を翻した。大友氏はこれを放置することは出来ず、立花道雪らに鎮圧に向かわせるが、事態は膠着する。 そこで宗麟は敵対する龍造寺氏と急遽和睦し、翌1568年に大軍をもって立花城を取り戻した。毛利氏は翌年元就自身が大軍を率いて立花城の再奪還を目指し九州に上陸するが、ここで不慮の出来事が起こる。 留守中の本国に尼子家再興を目指す山中鹿之介と大友家の意を受けた大内輝弘が攻め込んできたのである。元就は直ぐ引き返し、大内輝弘を討ち果たし鹿之助を追い払うが、毛利氏九州進出の機会はもう二度と巡ってこなかった。 筑前岩屋(ちくぜんいわや)城の戦い 1586年 主要関係大名:島津義弘 vs 高橋紹運 九州統一を目指す島津家の随一の猛将・義弘と大友家の勇将・高橋紹運の間で行われた、戦国史上に残る壮絶な戦い。 義弘は五万余の大軍を率いて岩屋城を包囲した。城兵はわずか七百余しかいなかったが、紹運の巧みな戦術で島津軍の猛攻に耐え、何と二週間持ちこたえた。しかし、もはや落城は時間の問題である。 もはやこれまでと悟った紹運は玉砕突撃に転じ、城兵が一人残らず討ち死にしたのを確かめた上で、自刃した。さすがの島津軍もこれにはみな感銘を受け、思わず全員合掌したという。 鳥取(とっとり)城の戦い 1581年 主要関係大名:羽柴秀吉 vs 吉川経家 織田家の中国侵攻隊長・羽柴秀吉と毛利家の勇将・吉川経家の間で行われた、戦国史上に名を残す「兵糧攻め」による戦い。 秀吉は鳥取城を完全包囲し、海上権も確保した。さらに、鳥取中の米を時価の数倍する値段で買い取り、農民たちを城中へ追い込んだ。兵糧輸送の道を絶たれた城内では、地獄絵図さながらの状態が現実となって現れたのである。 餓死者が続出し疫病も発生。士気は低下する一方で、これでは経家もどうすることも出来ず、ついに切腹開城した。戦いの後飢えた人々に粥を振る舞ったが、縮んでいた胃袋に急に食物を入れたため、胃を破裂させて死ぬ者が続出したという。 備中高松(びっちゅうたかまつ)城の戦い 1582年 主要関係大名:羽柴秀吉 vs 清水宗治 織田家の中国侵攻隊長・羽柴秀吉と毛利家の勇将・清水宗治の間で行われた、戦国史上に名を残す「水攻め」による戦い。 軍師・黒田官兵衛の助言も得て、地形を巧みに利用して二十日足らずの間に堰を築き、運も味方にした(大雨が降った)秀吉は高松城を浮城とした。援軍の毛利氏は目と鼻の先まで来ていたが、これでは手が出せない。そこへ秀吉のもとに本能寺の変の知らせが届く。 秀吉は直ちに動き、毛利家の外交役である安国寺恵瓊の活躍もあり、城兵の命と引き替えに宗治は切腹、開城した。ここから名高い「中国大返し」が始まり、秀吉は天下人への第一歩を踏み出したのである。 箕作(みつくり)城の戦い 1568年 主要関係大名:織田信長 vs 六角義賢・義治 足利幕府15代将軍・義昭を擁して上洛をもくろんでいた信長と、当時信長に徹底抗戦を続けていた六角親子との間で行われた戦い。 信長の上洛に際し、北近江の浅井長政は婚姻同盟関係にあったので、両軍合わせて四万の大軍で六角氏の本拠・観音寺城へと迫った。これに対し六角氏は強硬な抗戦態度に出たため、織田・浅井連合軍は支城の箕作城と和田山城へ殺到した。和田山城はすぐに落ちたが、箕作城は再三に渡る降伏勧告をはねつけて籠城戦となった。六角方もよく奮戦したが大軍の前には敵わず、夜になって落城した。 この結果、観音寺城の六角親子も城を捨てて甲賀郡へ落ちていった。以来、小さな反抗は繰り返したものの、近江の名族としての佐々木六角氏はここに滅んだと言えよう。 箕輪(みのわ)城の戦い 1566年 主要関係大名:武田信玄 vs 長野業盛 上州進出をもくろんでいた武田信玄と、山内上杉憲政の家老で猛将・長野業正の嫡子・業盛との間で行われた戦い。 上州の黄班(虎)と呼ばれた猛将・長野業正の在世中は何度となく苦杯をなめさせられた信玄であったが、業正の死後二万の大軍を率いて箕輪城攻めに出たのである。 城中には、後に剣聖として名高い上泉伊勢守信綱をはじめとする勇将が多数おり、そう易々とは城は落ちなかった。しかし衆寡敵せずついには落城し、業盛は切腹して名族長野氏は滅びた。信綱は信玄に仕えることを拒み、放浪の旅に出て後に剣術・新陰流を創始することになる。 by Masa
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