戦国期を彩る個性派武将たちには、それぞれ「十八番」とも言える得意戦法がありました。ここではその有名な武将たちの得意戦法をご紹介します。 |
武田信玄→啄木鳥の戦法 この啄木鳥(きつつき)の戦法は、啄木鳥がエサを捕るときに、木の反対側をつついて虫をびっくりさせて穴から這い出させ、出てきたところを捕らえるという習性に目を付けた軍師・山本勘助が川中島の合戦時に進言したことに始まる。 つまり、機動力のある精鋭部隊を敵陣の中核や留守城などに迂回進軍させ、敵がそれに気を取られている隙に本軍で一気に攻略するというものである。 川中島の合戦においてはさすがに敵は謙信、この戦術を見破り、武田勢は大苦戦となる。しかし、別働隊が謙信の背後に回った頃から今度は謙信軍が苦戦を強いられ、結局は痛み分けという結果になった。 軍師・山本勘助は戦術を謙信に見破られたことが口惜しかったらしく、責任を取るような形で敵陣に突撃し、戦死する。しかし、この後武田軍はこの戦法を用いて着々と版図を拡げていき、その天下一と称された騎馬隊の威力もあって、向かうところ敵なしの勢いであった。 なお、山本勘助自体が実在する人物かどうか確証がないこともあり、この戦法を進言したのは馬場美濃守信房だという説もあることを付記しておく。 トップへ戻る 上杉謙信→車懸りの陣 この車懸り(くるまがかり)の陣と呼ばれる戦法は、謙信とその旗本衆による本陣を中心とし、各隊が放射状に並び風車のように回転しながら敵に当たるというものである。 つまり、最初に敵に当たった部隊が一旦退くと、すぐ次に新手の部隊が攻撃する。これを繰り返すことによって、敵は常に応戦しないといけないが、自軍は休憩を挟む部隊が出来る分有利になる。もちろんこれも軍そのものが強くなければ出来ないことではある。 謙信は軍神とまで言われた戦国の雄である。麾下の軍勢は、統率がとれていることにかけては天下一と言っていいであろう。こういう軍隊を持っていた、いや、作り上げた武将だったからこそこういう戦法が可能であったのである。 さらに謙信は、常に敵の数を下回る軍勢で戦いながら、生涯不敗であった。しかも敵は武田信玄や北条氏康といった名将を相手にである。何か彼は合戦を楽しんでいたのではないかという節さえ感じられる。それだけ、謙信は強かった。 なお、江戸時代に入って、彼の後を継いだ上杉景勝の軍勢を見た諸大名は、その整然として規律正しく統制された軍を目の当たりにし、みな密かに感心したという。謙信の遺風はずっと上杉家の家風として幕末まで続いたのである。 トップへ戻る 真田幸村→影武者攪乱戦法 これは、幸村とその旗本衆による本隊と同じ陣立ての隊を数組作り、各隊に同じ「真田六連銭」ののぼりや馬印を持たせて同時に多方向から敵に突撃し攪乱するというものである。 さらに幸村はこの戦法を効果的にするために、手飼いの忍者たちを敵陣に紛れ込ませ、「○○殿裏切り!」等と叫ばせて敵陣の一層の乱れを誘ったという。これも少人数で大軍に当たるための、幸村一流の工夫である 関ヶ原の西軍敗戦により父・昌幸と紀州九度山に流された幸村は、「真田紐」を考案し作らせ、それを全国に売りに行くという口実で諸方の情報を得ていた。やがて父・昌幸も病死し気落ちしていたところへ大坂の陣が勃発する。 この戦いにおいて大坂方に加担した幸村は、「真田丸」と呼ばれる出丸を築き、徳川方をさんざんに悩ませてその勇名を高くする。しかし、和談に応じた大坂方を見事に欺いた家康は、城の濠を全て埋めてしまい、裸城にしてから再度大坂方へ戦を仕掛けた。 幸村は何度も戦術を上申するが聞き届けてもらえず、悲壮な覚悟のもとに徳川方に玉砕戦を挑む。得意の影武者攪乱戦法で家康の本陣に突撃し、家康を三里(12km)も後退させたのである。しかし、これが彼の限界であった。 精根尽き果て、敵をさんざんに痛めつけた幸村も人間である。体中の力を使い果たして安居天神にたどり着くが、ついに越前松平家の西尾仁左衛門という侍にその首を取られた。 島津家に伝えられた、この合戦における幸村の評価である。 トップへ戻る 豊臣秀吉→水攻め/干し殺し 水攻め戦法は歴史上名高い対毛利家の備中高松城攻めや、紀州雑賀党掃滅戦の太田城攻めで使われた秀吉の得意戦法である。また、干し殺し戦法は鳥取城・三木城攻めで使われたことで有名であるが、これらの戦法には共通点がある。 それは「食料の補給路を断つ」ことと、「戦意を喪失させる」ことである。これは秀吉の戦いに一貫して見られる「自軍の被害を最小限にして勝つ」さらに、「敵にも損害を与えずに勝つ」ということであり、従って彼の勝ち戦はみな敵に数倍する人数にて行われ、敵の戦意を喪失させて得たものである。 水攻めを行うには、堤を造るための土木工事など、非常に多くの物資と労力を必要とする。また、天候の具合にも左右される。しかし、秀吉には黒田官兵衛ら優秀なブレーンと何より「強運」があった。高松城攻めも太田城攻めも予定通り敵将降伏という形で決着を見る。後の小田原攻めの際、忍(おし)城攻めを任された石田三成がこの戦法を真似て失敗し、諸将の物笑いの種にされたという。やはり、誰にでもできる戦法ではない。 干し殺しを行うには、まず敵城の完全包囲が出来るだけの人数と、現地の食料物資を買い占めてしまう金が必要である。秀吉はこの点でも抜かりはない。鳥取城攻めの時は、時価の十倍の値で米を買い占めたため、なんと城内からもひそかに売りに来る始末であったという。さらに、海上をいち早く封鎖したため、精強なる毛利水軍といえどもそれを突破して食料を城内に運ぶことが出来なかった。このあたりは、さすが秀吉といえよう。 しかし、戦術家としての秀吉は小田原攻めまでであり、後の二度にわたる朝鮮侵略の暴挙により彼の評価は著しく下がってしまうのである。 トップへ戻る 鈴木重秀→組撃ち鉄砲 鉄砲の戦法と言えば、長篠の合戦で織田信長が武田勝頼軍に使った「三段撃ち」が有名だが、それを上回る戦法がこれである。鈴木重秀は雑賀孫一の名で知られる、鉄砲集団「雑賀党」の首領である。なお、雑賀孫一は鈴木重朝とする説や、架空の人物とする異説もある。 それはともかく、この戦法は1挺の鉄砲を4人で撃つところに特徴がある。すなわち、まず鉄砲を撃つ係が一人いて、その左右と後ろに各1人ずつ配置し、それぞれが別々の役割を果たすのである。一例を挙げれば、左の兵が銃に弾を込める。次に右の兵は火蓋に火薬を素早く盛って閉じる。さらに後ろの兵が火縄を火挟みに挟む。あとは撃ち手が引き金をコトリと落とすだけである。この一連の動作に慣れてくると、約4〜5秒間隔で連射できたという。 通常、鉄砲は1人で使用すると、射撃の間隔は早くても約20秒強と言われている。したがって、織田信長はこれを三段に分けることにより、単純計算で約7秒間隔で撃ったことになる。ところがこの組撃ち鉄砲では、単に射撃を2組に分けただけでも、計算上2〜3秒間隔の射撃となる。いかに重秀ら雑賀党の工夫が素晴らしいかおわかりいただけると思う。 この優れた戦法と精密巧緻な射撃術、さらに多量の鉄炮を持つ雑賀党が本願寺に協力したため、10年にも及ぶ石山戦争の結果、当時日の出の勢いであった織田信長でさえこれを打ち破ることが出来なかったのである。そして信長のこの苦い経験が、後の長篠合戦の鉄砲の工夫活用に繋がる。 しかし、さすがの雑賀党も秀吉の大軍の前には抗しきれず降伏する。重秀のその後は病死したとも、放浪の旅に出たとも、毒殺されたとも言われているが、どれも確証を得られるものはない。 トップへ戻る 島津義久・義弘→釣り野伏せ 釣り野伏せと呼ばれる戦法は島津家の十八番の得意戦法である。これは、茂みの中に多数の伏兵を隠し置き、先攻部隊がひと当たり敵に当たって故意に退却し、敵を伏兵の隠してあるエリアまでおびき寄せ、機を見計らって一斉に包囲殲滅させるというものである。 これは言ってみれば簡単なことなのだが、敵をおびき寄せるにはそれなりの「負け方」が必要で、戦に慣れた指揮官でなければこの先鋒役は任務を遂行できないのである。つまり、敵に悟られないように注意しながら、退却しては虚勢を張り再度攻撃する事を繰り返す。時間をかけてゆっくりと敵を慢心させるのである。島津家には戦巧者が多かったことからこの戦法が多用されて成功を収めたのである。 日向国の伊東氏や豊後の大友氏、肥前の熊と恐れられた龍造寺氏との対決でもこの戦法によって多大な成果を上げている。しかも島津家の当主義久には3人の弟たち(義弘・歳久・家久)がいたが、いずれも優れた指揮官で、この戦法を得意技としていた。 また豊後戸次川の戦いでは、天下人・秀吉の大軍を相手に堂々と渡り合い、この戦法をもって秀吉の先鋒の仙石秀久軍を撃破しているのである。(この戦いで長宗我部元親の長男・信親を討ち取っている) しかし、いかな島津軍といえども数十万に上る天下人の軍を相手に勝利はおぼつかなかった。義久は即座に武士の意地よりも島津家の存続を優先し、剃髪して降伏する。果断即決、薩摩隼人のこういう潔さが島津家を幕末まで残したのである。 伊達政宗→騎馬鉄砲隊 これは、読んで字のごとく、伊達家の誇る騎馬隊の前衛部隊として鉄砲を持たせた騎馬隊を別に編成配置し、馬を疾駆させながら鉄砲を浴びせるというものである。 奥州は名馬の産地として知られ、他の大名家より優秀な馬を数多く揃えられるという、伊達家の「特権」を活かした戦法であった。 政宗がこの騎馬鉄砲隊を思いついたのは、長篠合戦において、織田・徳川連合軍が鉄砲の三段撃ちによって武田勝頼を粉砕したことにヒントを得たという。そこで、鉄砲隊と騎馬隊の長所を取り入れ、軍師の片倉景綱とともに考え出したとされている。一説には紀州の雑賀孫一の助力もあったとされるが、不明である。 騎馬鉄砲隊は凄まじい強さを発揮した。前例のない新戦法ゆえに、敵の大将には対処方法が分からないのである。これが最も威力を発揮したのは大坂の陣であったが、初めて敗れたのも大坂の陣においてであった。 八百頭の騎馬鉄砲隊を先頭に配置した、二千頭の騎馬隊を含む一万余の大軍で、後藤又兵衛基次や薄田隼人正兼相を粉砕してその首を挙げた。しかし、又兵衛の後続の大将がこの無敵騎馬鉄砲隊を蹴散らしたのである。 その大将の名を、真田幸村という。幸村は兵を茂みに隠し、騎馬隊を引きつけられるだけ引きつけて横から一斉に掛からせ、接近戦に持ち込んだのである。大激戦となったが、さしもの騎馬鉄砲隊も退却を余儀なくされたのであった。 政宗の恨みと落胆はかなりのものであったと思われる。なぜなら、雪辱を期すはずの幸村は翌日に戦死し、何よりもその騎馬鉄砲隊の威力を発揮させるべき合戦そのものが、大坂の陣を最後に無くなってしまったのである。 やはり政宗は、生まれてきたのが少し遅かったようだ。 by Masa
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