上杉謙信と酒

数あまた存在する酒好きな戦国武将の中において、上杉謙信の名は特に有名です。その彼と酒との関わり方にスポットを当ててご紹介します。


 越後国(現新潟県)春日山城に居を構える彼は、十九才の若さで家督を継いだ。当時は長尾景虎と名乗り越後国主というよりも越後の豪族のリーダー的存在であった。
 時の関東管領・上杉憲政が北条氏に追われて越後に逃げ込んできた際、関東管領職を譲られて上杉氏を名乗ったのが、「戦国の神将」とまで言われた彼のスタートであった。

 布施秀次氏の著書「上杉謙信傳」の中にも〈酒を好み、常に縁側に出でて飲む〉とあり、話題作映画「天と地と」のシーンにも見られるかの有名な川中島の合戦において、宿敵・武田信玄の本陣に単騎斬り込むといった離れ業をやってのけたような、どこか無謀とも言える彼の性格は(謙信ファンの方、ごめんなさい)酒の影響もあったのだろうか。また彼は天正六年に四十九才の若さで没することになるのだが、こちらはどうも酒の影響がかなりあったようだ。

 さて、上杉謙信が酒好きであったことは、現存する上杉家や上杉神社にある彼常用の杯を見てもわかる。いずれも直径12cm前後の大盃で、その中には「馬上盃」といわれる 珍しい物もある。越後の冬は雪も多く寒い。酒好きの彼はきっと馬上でも酒を呑んでいたのだろう。
 彼は当時二大強敵を抱えていた。甲斐の武田信玄と相模の北条氏康である。信玄はさておき、氏康もなかなかの謀将で、謙信が出陣しにくい冬期に狙いを定めて関東諸州に手を伸ばしていたようだ。だが謙信は関東の諸豪族達からの救援要請を受けると、厳寒の三国峠を越えて出陣していったという。
 現在のように道路や交通が発達していなかった当時において、冬の三国峠越えは言語に絶する苦労があったであろうことは容易に想像できる。幸いに、途中に現在の越後湯沢温泉や猿ヶ京温泉があり、これらを利用しつつ酒で暖をとりながら行軍していったのではないかと思われる。

 謙信は天正六年三月、織田信長が本能寺に倒れる四年前に、春日山城内の厠で脳卒中で倒れ、帰らぬ人となる。日頃の大酒が災いしたとの説が有力である。上洛に備えて上杉軍団を春日山城に集結中の出来事で、実にこの数日後には出発する段取りであったという。

 謙信が上洛を開始すれば、越中・加賀・越前・近江のルートをとることになるが、途中に誰がいるか。そう、織田信長である。つまり謙信が上洛すると信長勢との一戦は避けられず、そうなれば当時の信長の武力ではとうてい謙信には敵し得なかったと思われる。実に信長は強運の持ち主であった。
(が、この四年後には本能寺の変が起こる)

 ところで、謙信は酒を飲む際に肴をとらなかったとも伝えられている。酒の肴は体内に入った酒が体に与える悪影響を緩和する働きがあることはご存じだろう。肴もつけずに伝えられているような大酒を繰り返していれば、いくら頑強な体の持ち主でもたまったものではない。彼の死因にはもちろん異説もあり、彼が誅殺した重臣・柿崎景家の霊が取り憑いて狂死したとか、信長が放った忍者に厠の下から槍で刺殺されたともいわれている。が、信用に足りるような確たる物証はない。やはり日々の度を過ぎた大酒が、彼の体を蝕んでいたのだろう。
一期の栄 一盃の酒
四十九年 一酔の間
生を知らず また死を知らず
歳月ただこれ 夢中のごとし

 これは謙信の死後に発見された辞世の句であるという。実際に彼がしたためたものであるかどうかの詮索はさておき、実に簡潔明瞭に彼の酒好きの性格を表しているではないか。
 彼があと数年でも生きていたら、歴史が大きく変わっていたことは間違いない。それが良かったかどうかは別として、謙信ファンならずとも実に惜しい人物を失ったものだ。

 新潟県栃尾市の諸橋酒造鰍ノ「越乃景虎」という酒がある。この酒を盃になみなみとついで呑みながら往時を偲んでみるのも一興である。こよなく酒を愛し、生涯不犯の誓いをたて幾多の合戦を不敗で切り抜けてきた戦国の神将・謙信も、最後にその最愛の酒によって敗れた。

酒は呑んでも呑まれるべからず

 いくら旨い酒でも、酒は酒。度を過ぎた飲酒は百害あって一利なし。旨い料理と適度の酒、まだまだこれからの人生を楽しむにはこれが一番。深酒にはくれぐれもご用心を。酒をよりいっそう楽しむためにも、そしてまた、平成の謙信にならないためにも…。

by Masa