戦国時代には大規模のものから小競り合い程度のものまで、幾多の合戦が毎日のように行われました。ここではそれらの合戦の中から、「野戦」に属すものを作者の独断と偏見でピックアップして紹介します。 |
小豆坂(あずきざか)の合戦 1548年 主要関係大名:織田信秀 vs 今川義元(太原雪斎) 尾張から三河へと、徐々に東へ勢力を伸ばしてきた織田信秀と、それを追い払おうとした今川義元との間で、現・愛知県岡崎市で行われた戦い。義元は幕下随一の智将で軍師の、太原雪斎(崇孚)を大将とした数千の軍を差し向けた。 三河安祥城を作戦基地としていた信秀も、約四千の軍を率いてこれを迎え、激突した。地の利をしめる今川軍が優勢であったが、信秀も必死の戦いで巻き返す。しかし伏兵を巧妙に指揮した雪斎が勝り、信秀軍は退却した。以後、信秀は尾張の国統一を果たせないまま没した。 姉川(あねがわ)の合戦 1570年 主要関係大名:織田信長 vs 浅井長政・朝倉義景連合軍 【Photo:姉川古戦場跡】 浅井長政・朝倉義景連合軍と織田信長の間で、近江国(滋賀県)姉川を舞台に行われた戦い。初めは浅井・朝倉両軍の奮闘で信長は押され気味であった。特に浅井方の猛将・磯野員昌は織田軍十三段の布陣を次々と撃破し、なんと十一段まで破ったという。 あと一段破れば信長本陣というところで、援軍の徳川家康に側面から猛攻を加えられて退却する。これを機に織田軍は勢いを盛り返し、朝倉方の猛将・真柄兄弟を討ち取るなど、結果的には織田軍の大勝利となった。 厳島(いつくしま)の合戦 1555年 主要関係大名:陶 晴賢 vs 毛利元就 主家大内氏を乗っ取り、当主・義隆を自害に追い込んだ陶晴賢(すえはるかた)を、元就一流の謀略によって安芸国厳島におびき寄せ、わずか三千の軍勢で陶軍二万五千をうち破った奇襲戦。 陶方から潜り込んでいたスパイを逆に利用し、味方をも欺いて厳島に城を築き、さらに重臣の桂元澄まで敵方へ内応したと見せかけて、晴賢をおびき出した。嵐の夜、村上水軍の応援を得て一気に厳島へ攻め寄せ、総大将・晴賢は自刃する。これを機に毛利家は西国の大大名としての地位を確固たるものとしていった。 大崎(おおさき)合戦 1588年 主要関係大名:伊達政宗 vs 大崎義隆 勢力拡大を目指す伊達政宗と、大崎義隆・最上義光・佐竹義重・蘆名盛氏などの反伊達勢力がにらみ合う中、1588年1月に突如伊達軍が大崎義隆軍へ攻めかかった時の戦い。中新田(なかにいだ)の合戦とも言われる。 このとき桑折城にこもる大崎軍の軍師・黒川月州斎晴氏の采配により、伊達軍は惨敗する。しかし、時勢の流れは大崎氏には味方しなかった。やがて伊達家の勢力が強大になり、最上氏の衰退もあって大崎氏は全面降伏へと追い込まれた。 沖田畷(おきたなわて)の合戦 1584年 主要関係大名:龍造寺隆信 vs 島津義久 自領を龍造寺隆信に侵され、島原城を奪われた肥前有馬城主・有馬晴信からの救援依頼を受けた義久は末弟家久を救援に差し向けた。その救援軍+有馬軍と龍造寺隆信との間で、島原城をめぐって行われた戦い。龍造寺軍六万の大軍に、家久はわずか三千の兵で果敢に挑み、相手の油断もあってついに総大将・隆信の首を挙げる。 この結果龍造寺家は島津の傘下に降伏し、島津の勢力は一段と大きくなった。余談だが、隆信の軍師・鍋島直茂は敗戦の責任を取り自害しようとしたが説得されて思いとどまる。彼は後に独立し、佐賀藩鍋島家の祖となった。 桶狭間(おけはざま)の合戦 1560年 主要関係大名:織田信長 vs 今川義元 戦国合戦史上あまりにも名高い奇襲戦。上洛を目指す今川義元二万五千の大軍に、織田信長は桶狭間(愛知県)において三千の兵をもって奇襲に出た。負ければ家の滅亡。また、たとえ籠城するにせよ、当時の信長と義元の力の差を考えると、負けることは必至である。まさに大ばくちであった。 豪雨に見舞われたことも幸いした。やや油断をしていた義元は、田楽狭間で休憩中に織田軍の奇襲を受け、全軍に指令を与える間もないうちに乱軍の中にその首を取られた。この勝利から、信長の「天下布武」への快進撃が始まった。 川中島(かわなかじま)の合戦 1561年 主要関係大名:武田信玄 vs 上杉謙信 これも戦国史上抜群の知名度を誇る、武田信玄と上杉謙信の戦い。実は信州川中島において10回以上戦闘を交わしているのだが、通常「川中島の合戦」といえば、1561年の第4回の時のものをいう。 戦術的駆け引きも互角、結果も互角、損害も互角で、両軍とも何も得ることのない戦いであったといえよう。特に武田軍では信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助を失ったのが大きく、以後両家の間に華々しい戦闘はない。 謙信が単騎信玄本陣に切り込み、信玄は軍扇でその刀を受けたとされる名シーンもこの合戦の時のものとされるが、確証はない。 木津川(きづがわ)の海戦 1576〜1578年 主要関係大名:織田信長 vs 毛利輝元 石山本願寺に籠城する本願寺顕如に兵糧を運び込むべく、村上武吉の指揮する毛利水軍と、九鬼嘉隆の指揮する信長水軍との間に行われた2回の海上戦。 第1次木津川海戦では、統率力に優れた毛利水軍の前に信長水軍はまったく歯が立たず翻弄され、主だつ武将が討ち死にしたうえ、ゆうゆうと兵糧の運び込みを許してしまう。 しかし第2次木津川海戦では、九鬼嘉隆が「大安宅船(おおあたけぶね)」と呼ばれる巨大鉄甲船を操り、毛利水軍を木っ端微塵に粉砕する。信長の海戦に対する発想の非凡さをまざまざと見せつけた戦いであった。 国府台(こうのだい)の合戦 1564年 主要関係大名:北条氏康 vs 里見義弘 国府台(現千葉県市川市)において両家は二度戦っているが、一般には1564年の第二次国府台合戦のことを言い、北条氏と里見氏の最終決戦ともいうべき激戦。 古河公方の後継者問題で、氏康は足利義氏を、義弘は足利藤氏を推挙したことがもつれ、以前に一度激戦を演じたいきさつもあり対立した。このとき、里見氏は上杉謙信と親交があったが、立場を同じくする太田一族の援軍を得て、北条氏と再度の戦いを決意する。 北条軍二万と里見・太田軍八千が大激戦となり、序盤は優勢であった里見軍が、勝利におごって油断した隙をつかれ、氏康の夜襲の前に大敗北を喫した。義弘は安房へ逃れ、以後里見氏の力は衰えていった。 小牧・長久手(こまき・ながくて)の合戦 1584年 主要関係大名:豊臣秀吉 vs 徳川家康・織田信雄連合軍 秀吉の清洲会議後のやり方に不満を持つ信長の次男・信雄(のぶかつ)が、家康に助けを借りて愛知県・小牧山を舞台に繰り広げた戦い。家康と秀吉が正面切って対峙した戦いとして有名。 家康の手薄な留守(三河・岡崎城)を迂回して一気に攻める「中入れ」戦法を取ったのはよいが、池田勝入斎恒興が行軍に手間取ったため、家康軍の追撃を受け全滅、失敗に終わる。 秀吉は得意の外交術で信雄と単独講和を結び、名目を失った家康は肩すかしを食らうが、事実上戦い自体は家康の勝利であった。 賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦 1583年 主要関係大名:羽柴秀吉 vs 柴田勝家 【Photo:賤ヶ岳古戦場跡】 明智光秀を山崎に下した勢いを持つ秀吉と、織田家筆頭家老・柴田勝家の間で行われた戦い。滋賀県北東部の賤ヶ岳を舞台に、柴田方の猛将・佐久間盛政がまず秀吉方の中川清秀を討ち取って合戦が始まる。このとき秀吉は大垣にいたが、早馬の知らせを聞くと直ちに引き返し、何と5時間あまりで木之本の本陣へたどり着く。 まさかそんなに早く戻ってくるとは考えず、勝家の退却命令を無視していた盛政はあわてて退却するが、秀吉の猛追撃の前に敗れて捕らえられる。このときの秀吉小姓たちの活躍がいわゆる「賤ヶ岳七本槍」である。 勢いに乗った秀吉は、北ノ庄に引き返した勝家を攻め自刃させる。盛政は秀吉に仕えることを拒み、斬首された。 摺上原(すりあげはら)の合戦 1589年 主要関係大名:伊達政宗 vs 蘆名義広 政宗が相馬義胤攻めに動いたとき、蘆名義広と佐竹義重が救援に向かい、政宗と義広の間で行われた戦い。義広は行軍中に重臣・猪苗代盛国の寝返りを知り、居城の黒川城へ引き返し、ただちに盛国討伐に向かった。 しかしこの時すでに政宗は猪苗代城に入っており、義広の盛国討伐軍と伊達軍の間で激戦が行われた。最初は蘆名軍の先鋒・富田隆実の奮戦で優勢であったが、隆実の戦死と同時に形勢は逆転し、義広は惨敗して黒川城へ逃げ戻る。 軍勢の損失が大きく、もはや本城は攻め落とされるのみとなった義広は、ひそかに城を出て佐竹氏を頼って落ち延びていった。ここに奥州の名族・蘆名氏は滅びた。 関ヶ原(せきがはら)の合戦 1600年 主要関係大名:石田三成 vs 徳川家康 【Photo:関ヶ原古戦場跡】 日本中の大名が東西両軍に分かれて戦った戦国史上一の大決戦。蟄居中の石田三成は上杉景勝と連携し、家康が上杉討伐に向かった隙に兵を挙げる。戦いは序盤は互角であったが、西軍・小早川秀秋の裏切りにより形勢は一挙に逆転。あっというまに西軍の敗北となった。 この勝利により家康はほぼ全国制覇を果たし、3年後に江戸幕府を開いて名実ともに戦国の覇王となった。軍勢の数は互角でも、結局は三成と家康の人間の器の大きさが勝敗を決めたといえる。三成は山中に逃れるが、田中吉政の手により捕らえられ、小西行長・安国寺恵瓊らとともに京都六条河原で斬首された。 天正伊賀の乱(てんしょういがのらん) 1579〜1581年 主要関係大名:織田信長 vs 伊賀国人・上忍家連合 織田信長に服従することを潔しとしない伊賀の国人衆と、信長軍の間に行われた徹底的な殲滅戦。 伊賀の上忍家の藤林長門守や百地丹波守などを中心に結束した伊賀衆は、徹底的なゲリラ戦で信長の侵略に対抗し続けた。しかし、所詮衆寡敵せず、ついには伊賀国の全人口の半分以上が殺されたと言われるほどの殲滅に遭う。 以来伊賀人は、織田家には深い恨みを持ち続けたと言われる。 長篠(ながしの)の合戦 1575年 主要関係大名:武田勝頼 vs 織田信長・徳川家康連合軍 信長考案の大集団かつ能率的な鉄砲の使用で大成果を上げ、合戦のあり方を変えたとされる、日本の合戦史上革命的な戦い。三河長篠において対峙した両軍であったが、勝頼は無敵騎馬軍団の威力に任せてしゃにむに突撃をかけたが、馬防柵にはばまれ立ち往生するところに一斉射撃を浴びた。 意地になって突撃を繰り返す度にバタバタと兵が倒されていき、信玄以来の名将・山県昌景をも失ってしまう。重臣・馬場美濃守信春は自ら殿軍を務めて勝頼を逃がすが、自身は戦死してしまう。 以来離反者が続出して武田家の実力は地に墜ち、後は滅亡を待つのみとなった。 長良川(ながらがわ)の合戦 1556年 主要関係大名:斎藤道三 vs 斎藤義龍 戦国を象徴する、親子相剋の代表的な合戦。道三は家督を嫡子義龍に譲ったが、義龍は実は前国主・土岐頼芸の子であった。というのは、道三が頼芸の気に入りの側妾・深芳野を妻にもらった時、すでに彼女は身ごもっていたのである。 道三もそれを知っていて、家中の反乱を未然に防ぐために前国主の血を引く義龍に国主の座を譲ったのであるが、これがかえっていけなかった。美濃は土岐一族の国であるという風潮から、家中が二つに割れてしまったのである。 道三は信長に援軍依頼を出し、信長もすぐ出陣したが、間に合わなかった。激戦の末、戦国の梟雄はついにその息子によって倒された。 長谷堂(はせどう)の合戦 1600年 主要関係大名:上杉景勝 vs 最上義光・伊達政宗連合軍 戦国史上に名高い退却戦。家康軍を迎え撃つことになった上杉景勝は、山形城の最上義光攻めを直江兼続に命じたが、これを知った伊達政宗は援軍を繰り出し山形城へ合流した。山形城の前衛基地・長谷堂城の攻防のさなか、兼続のもとに関ヶ原における西軍の敗報が届く。 兼続はただちに米沢へ兵を引き上げさせたが、義光・政宗軍は大挙して追撃に出た。彼は二万の全軍を十三段に分け、上杉軍法中にある「懸り引き」といわれる戦法を駆使して防戦し、自身も追撃軍の中に身を投じて奮戦した結果、義光・政宗軍を敗走させて見事引き上げに成功した。 戸次川(へつぎがわ)の合戦 1586年 主要関係大名:豊臣秀吉 vs 島津義久 秀吉のいわゆる九州征伐の緒戦。仙石秀久を総大将とする、長宗我部元親や十河存保ら六千の軍と、島津家久軍二万が豊後国戸次川で激突した戦い。 敵の挑発に耐えきれず、秀吉の待機命令に逆らって攻撃命令を下した秀久は、乱軍となるや一人逃げ帰ってしまう。残された元親や息子の信親・十河存保らは奮戦するが、結果は島津軍の勝利に終わる。 この戦いにおいて、元親の嫡男・信親と十河存保は戦死、まずい戦をした仙石秀久は秀吉の怒りに触れ所領没収となった。 三方原(みかたがはら)の戦い 1572年 主要関係大名:武田信玄 vs 徳川家康 信玄と家康の間で、遠江国(静岡県)三方原台地にて行われた、家康一世一代の難戦。上洛を目指す信玄は遠江に侵入、浜松城に籠もる家康をおびき出すべく、浜松の北に広がる三方原を横切って通過しようとした。 家康は力の差から戦えば負けると分かり切っていたが、悠々進軍する武田軍を国主のプライドが許さず、玉砕覚悟で戦いを挑んだ。結果は惨たるもので、信長からの援軍を含め完膚無きまでにたたきのめされ、命からがら浜松城へ逃げ帰った。 敗れはしたが、この結果領民や家臣の信頼がより強くなり、家康には大きなプラスとなった戦いであった。なお、信玄は陣中にて病(労咳=肺結核)を得て、上洛を果たせぬまま没した。 耳川(みみがわ)の合戦 1578年 主要関係大名:島津義久 vs 大友宗麟 日向国への勢力拡大を目指した大友宗麟が八万の大軍を率いて、島津義久・義弘軍四万との間で行われた戦い。大友軍が高城川(小丸川)上流の高城を攻撃して合戦の火蓋が切られる。序盤は大友軍優勢であったが、小丸川〜名貫原の戦いで島津お家芸の「釣り野伏せ」の計略に掛かり大敗する。 軍師・角隈石宗の諫言を用いず、数を頼んでしゃにむに攻め込んだのが敗因で、佐伯宗天・田北鎮宗など有能な将が次々と討ち死にしてしまった。宗麟は命からがら逃げ帰るが、これを境に大友家は斜陽の一途をたどることになる。 山崎(やまざき)の合戦 1582年 主要関係大名:羽柴秀吉 vs 明智光秀 現京都府・山崎で行われた、秀吉のいわゆる「天王山」の戦い。備中高松城で毛利方の勇将・清水宗治と対峙していた秀吉は、信長死すの報を受け取るやいなや大急ぎで和睦に持ち込み、弔い合戦として後に言われる「中国大返し」を敢行して明智光秀に決戦を挑んだ。 光秀はまさかそんなに秀吉が早く返してくるとは思っておらず、一瞬の立ち後れが取り返しのつかない結果へと彼を導いていった。 光秀も奮戦したが、先に天王山という地の利を取られたことが戦局に響き、戦いに敗れて退却中に小栗栖村で土民の槍にかかり落命した。わずか10日あまりの「天下」であった。 |